【第294回】『恐怖分子』(エドワード・ヤン/1986)

 朝焼けの中、けたたましいサイレン音を鳴らしながら、パトカーがどこかへ向かい走っていく。部屋では一組のカップルがベッドの上にいるが、男は既に眠っており、女だけが小説を夢中になって読み進めている。男はやがて目覚め、トイレの鏡と向かい合う。開け放たれたベランダでは心地良い風と、徐々に近づいてくるサイレンの音と銃の発射音が不穏な空気を掻き立てる。人間だけでなく、様々な物質を据えたショットの断片が脈絡なく幾重にも連なり、ショットとショットが一連の不穏さを際立たせる。これがエドワード・ヤンの大傑作『恐怖分子』の導入部分である。

次のショットでは、いきなり男が道の真ん中に突っ伏して倒れている。そこにパトカーが到着するが、刑事はある若者の姿を見つけ、ジェスチャーで危ないから向こうに行けと指示を出す。先ほどの若い男は残念そうに渋々応じようとするが、次の瞬間、籠城した部屋から飛び降りた2人の姿を目撃する。どういうわけか警察は最初に飛び降りた女には気付いていないらしい。若い男は警察そっちのけで、足を痛めながらも警察に見つからずに逃げ出した女にシャッターを向ける。この場面の刑事の判断は、率直に言っておかしいというか不可思議である。本来刑事ならば、このカメラマンの若い男の撮ったフィルムを押収し、そこに写っている人物を押さえるのが筋というものだろう。しかしながら警察はそれをしない。

警察から辛くも逃げ切ったハーフの女には、母親がいるが父親はいない。母親は不良娘の顛末にため息をつき、強制的に病院から家に連れ戻し、The Plattersの『Smoke Get In Your Eyes』のレコードに針を落とす。だが娘はその歌詞の意味さえも掴めないまま、じっと下を見つめている。冒頭のパトカーのサイレンや発砲音、怯えた犬の咆哮、ガラスの割れる音などの一連の不快な音に対し、この曲のうっとりするようなドゥーワップの美しいハーモニーは明らかに対比され、然るべき場所に配置される。ベタ敷きになった音楽は、やがて冒頭の男女の決定的な不和の場面にも被っていく。

無人の殺風景な部屋、揺れるカーテン、外から聞こえて来るサイレン、ふいに鳴る電話、排水管から落下する水、これらの描写がどれもホラー映画の下地として、恐怖を醸成していることは誰の目にも明らかである。しかし今作では幽霊の類も桁外れに巨漢な殺人鬼も遂に出て来ない。物語はホラー映画らしい雰囲気を醸し出しながら、やがて都市に住む普通の人々を次々に結びつけていく。

処女作『光陰的故事』からエドワード・ヤンの根底にあるのは、メランコリックな女性心理と、それに必死に歩調を合わせようとする男性心理との決定的不和だろう。『光陰的故事』の第2話「指望」においては、黒縁メガネの少年が主人公に無理して話を合わせようとするが、彼は身体的にも精神的にも未熟であり、主人公の遥か後ろを歩いている存在でしかない。主人公の少女は彼ではなく、隣に居候する大学生に恋をしている。その恋の結末は短編ゆえに呆気なく訪れるも、黒縁メガネの少年は自転車に乗れたことを主人公の少女に自慢したくて、猛アピールする。そういう男女の残酷なまでの機微や温度差に対して、エドワード・ヤンは実に率直にに演出を施す。彼の映画では、常に勘違いや厄介な勘繰りが起こるが、それ自体が男女の微妙な心理の違いでしかない。

今作において、小説家の妻と医師の夫のカップルというのは最初からほとんど破綻した状態にある。夫婦の間にまともな会話はほとんどなく、お互い目を合わせることもない。夫も妻も相手に遠慮している。夫の会社は係長が心臓病で死に、ようやく昇進し、重要なポストに有りつけるかもしれないと夫は過剰に期待している。小説家の妻はスランプ状態に陥り、環境を変えなければ新しい小説が書けない。夫は妻のことを思い、妻のために生活しているつもりだが、妻にとってはそんな夫の存在が煩わしい。この微妙な夫婦の差がやがて悲劇を生むことになる。

2人の間には、かつて赤ちゃんを身籠るも流産した苦い思い出がある。妻が夫に涙ながらに夫婦生活の破綻を訴える場面は真に迫るやりとりである。その後も夫は何とかして妻とヨリを戻そうと何度も接触を持つが、その度に気のない返事をされる。今作を語る際にいつも決まって俎上にのるのは台北に暮らすまったく関係のない3組の男女が、一発の銃声と一本の悪戯電話をきっかけに結びつくということだが、実際それはそうだろうか?

あくまでこの夫婦の決定的な亀裂のきっかけに1本の電話が関係しただけで、もともとこの夫婦には早かれ遅かれ同じような出来事になっていた可能性は高い。そもそもどんなに愛想を尽かせたとしても、夫の浮気の有無を確認もせずに、妻は黙って家を出て行くのだろうか?そこが脚本上イマイチよくわからない。妻に別れを切り出され、すんでのところまで行った昇進の夢が叶わなくても、男にはそれでも生きねばならない人生があったはずだ。無機質な空間の中で突っ伏して倒れた男の最期の瞬間が無情にも胸に響いてくる。管理人の生涯ベスト30に入るアジア映画の傑作中の傑作である。

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