【第373回】『ホームワーク』(アッバス・キアロスタミ/1989)

 通学途中の生徒たちの姿を収めたショットが断続的に連なる。生徒からの「何の映画を撮っているの?」の問いに、監督であるキアロスタミは「脚本もないからまだどうなるかわからない」と制作意図をはぐらかす。今作の撮影はテヘランにあるジャヒッド・マスミ小学校で行われた。朝礼が始まり、先生の文言「アラーは偉大なり」を復唱する子供たち。彼らが繰り返す言葉は「フセインを殺せ」などの物騒な言葉が並ぶ。その場違いな光景をキアロスタミは俯瞰でゆっくりと撮影していく。この光景の異様さを理解するには歴史に学ばなければならない。79年のイスラム革命により、イスラム共和制を採用するイラン・イスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は、先例のないウラマー(イスラーム法学者)による直接統治のシステムを導入するとともに、伝統的イスラームに基づく社会改革が行われた。革命により西洋起源の映画は反道徳的と見なされ検閲され、大半の映画作家は国外への亡命を試みた。時の指導者であるホメイニは、人口の半数が15歳以下という特殊な環境下で映画をイスラム共和制のプロパガンダに利用しようとしたのである。あの朝礼の掛け声も啓蒙教育の最たるものであり、80年に起きた隣国イラクのサッダーム・フセイン大統領によるフーゼスターン州侵攻から、禍々しいイラン・イラク戦争へと続いたのである。今作はそのイラン・イラク戦争終結後の学校教育の在り方をドキュメンタリー・タッチで描いている。

まずキアロスタミは狭い室内に机を置き、自らがそこに座り、宿題をして来なかった生徒10数名を呼び出す。キアロスタミの後ろに直立した撮影監督イラジ・サファヴィが彼ら子供たちの顔を1人1人クローズ・アップで据える。その構図は小津安二郎のような正面からフィックスしたショットであり、キアロスタミと生徒の問答の中に、カメラを構えたイラジ・サファヴィのショットがふいに挿入される。先ほども述べたように今作には決まりきった脚本や台本は一つとしてない。監督はこの狭い異様な空間の中に子供達を一人一人押し込め、彼らの本音を探り出そうとしている。まず「なぜ宿題をしてこなかったのか?」の根源的問いに始まり、誰が宿題を見てくれるのか?罰の対義語であるご褒美とはいったい何なのか?など哲学的な語りかけ方で子供達の言葉を引き出していく。その中で浮き彫りになった社会問題、89年当時、イランで働く親達の37%が文盲であり、子供達に宿題を教えたくても教えられないことが明らかになる。前作『友だちのうちはどこ?』でも垣間見えたイランの封建的な家族問題が浮き彫りになり、むしろ子供達の背後にいる大人達への憤りが生まれていく。それが端的に見えるのは「宿題とアニメどっちが好き?」と問いかけた時に、表情を強張らせた子供が「宿題」とつぶやく印象的な場面がある。また躾と称して、革のベルトでぶつ父親と息子とを交互に登場させ、父親の欺瞞に満ちた証言を作為的な編集で見せるあたりは、イスラム革命により様変わりした当時のイランの教育システムに暗喩的に警鐘を促している。

今作で特に胸を打つのは戦争映画が好きという子供の無邪気な言葉「前線では喧嘩してるのに」の言葉に対し、キアロスタミが子供の発言を遮るように「あれは喧嘩じゃなくて戦争というんだ」と答える場面だろう。ホメイニの死により政情が不安定に陥る中、子供達の発言はどれも的確で当時のイランの空気を我々観客に厳格に伝えるかのようである。そこであらためて当初は異様な光景にしか見えなかった「アラーは偉大なり」や「フセインを殺せ」の大号令の場面を再提示するが、我々観客はその列に居並ぶ子供達の顔を判別し、見つめる。その眼差しを遮るかのように、一瞬キアロスタミはしたたかにも音を止め、情報を遮断し映像のみに注意を向ける。クライマックスには友達と引き離され、狭い空間に閉じ込められた1人の少年の泣き顔を綴る。彼は右手を上げ、友達に合わせてくれと懇願するのだが、そこで監督が宗教詩を歌わせた途端、それまで情緒不安定だった少年の身振り・手振りがピタッと収まり、堂々と宗教詩を歌い上げるのである。今作は紛れもないドキュメンタリー映画でありながら、途中子供達が発する言葉がフィクションとしか思えないドラマを提示する。キロアスタミはシンプルな子供たちへの問いから、ドキュメンタリーとフィクションの境界線を軽々と越えてみせるのである。

#アッバスキアロスタミ #ホームワーク

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