【第357回】『雪の轍』(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン/2014)

 トルコのカッパドキアに佇むホテル・オセロ。イスタンブールで舞台俳優として活躍したアイドゥン(ハルク・ビルギネル)は、資産家だった父の死をきっかけに俳優業を引退し、若く美しい妻ニハル(メリサ・ソゼン)と妹ネジラ(デメット・アクバァ)と共にホテルのオーナーとして暮らしていた。ホテルの他にも店舗や家を持ち、膨大な資産の管理は弁護士や使用人に任せる、人も羨むような裕福な生活。そんなある日、彼が運転していた車に道端から石が投げ込まれる。犯人の少年は、アイドゥンに家賃が払えず、家具を差し押さえられたイスマイル(ネジャット・イシレル)の息子だった。不遜な態度でアイドゥンに恨み言をぶつけるイスマイル。イスラム教の聖職者であるイスマイルの弟ハムディ(セルハット・クルッチ)がとりなしたものの、両者は一触即発の状態に。

冒頭、世界遺産のカッパドキアに佇む美しいホテルの前で男が立ち尽くす姿をロング・ショットで据える印象的な場面がある。360℃あらゆる方向から繊細な音がフレームの中に入り込んでくるかのようである。男はホテルのオーナーであり、気持ちに余裕があるのか宿泊客を優しくもてなすが、その背中や眼差しにはどこか哀愁さえ感じさせもする。ジェイランらしいゆったりとした立ち上がりである。彼はオーナーながら帳簿や財務面をまったく把握しておらず、当然ホテルの雑用に関してもお手伝いに任している典型的な手は貸さず口は出すタイプのオーナーである。そんなオーナーの横柄な態度へと怒りなのか、開巻早々、彼の部下の機械的な家具差し押さえに対し、借主の息子が石に憎悪を込める。文豪チェーホフの戯曲に着想を得ながらも、現代的なテーマの物語に、カッパドキアの地名の由来になったホワイト・ホース、シェイクスピアの一節、そしてあたり一面を白く染める雪などの美しいモチーフをちりばめ、裕福と貧困、西洋世界とイスラム世界、男と女、老いと若さ、エゴイズムとプライド、そして愛と憎しみといった様々な人間が持つ普遍的要素が徐々にあぶり出される。壮大なカッパドキアの美しい風景とは対象的に、彼らの言葉は非常に汚く生々しい。閉塞感に満ちた冬の凍てつく寒さの中で、互いの本質を露わにし、感情を剥き出しにする登場人物たち。限られた空間の中で、身内、友人、隣人などがお互いのエゴをぶつけ合うそんな限定された空間の中心にアイドゥン(ハルク・ビルギネル)はいる。

若い頃は神童と呼ばれ、明るい未来を約束されたかに見えた主人公。だがその才能は一向に開花せず、亡き父親の遺産を食いつぶすインテリの成れの果てのような生活をしている。彼の潤沢な資金や家柄をバックに、決して家主にはひれ伏そうとしない野心的な若妻との不和は、どこの国でもいつの時代でも共通の問題を有していると言えるのかもしれない。束縛を嫌う若妻の自分勝手な慈善事業(ボランティア)に、夫の堪忍袋の尾はとうの昔に切れており、いつ沸点を迎えるかわからないマグマは静かにふつふつと湧き上がっている。冷たい雪に囲まれた冬の季節にも関わらず、一つ屋根の下に暮らす家族はそれぞれに他者への不満を抱えており、些細な言い合いがやがて人間の心理さえもえぐるような冷たいやりとりへと繋がっていく。良かれと思って妻に相談した話が、ネットにおける寄付話というのが面白い。なぜ裕福な夫はそんな安易な広告レベルの詐欺に引っかかってしまうのかと妻は考え、侮蔑の表情を浮かべるのだが、それは偏に愛する妻の気を引こうとした夫の軽い思いつきに過ぎないように思える。裕福な家庭、教養のある家族、その2つの条件が揃えば冷静に見て文化的幸福度は高いと言えるのだが、現にこの家族は誰一人として幸せそうに見えないのである。

寂しさと欲望にまみれた支配、その支配からの抵抗の主題はいつ果てるとも知れない夫婦の緊張関係の持続を促す。互いの行動に一向に理解出来ない何かを抱える2人は、それぞれ相手に会うのを極力避けているのである。ニハルはネジラやお手伝いさんに依存し、一向に家庭を顧みない。自分の思いをぶつけるのはいつもMacBookairの中だけである。そのことが決定的な亀裂につながり、主人公の精神的孤独に更に拍車をかける。イスタンブールで働くという子供じみた誓い(家出)があっさり覆される後半部分に至っては、裸の王様としての主人公の悲しみが滲む。ただそこにオオカミの死骸が横たわるだけで、野心さえも折れてしまう主人公にとっては、王様が王様らしく振舞うことが出来るホテル・オセロに幽閉される存在である。だが妻も妻で、夫からの支援に依存しない姿勢を見せ、ボランティア精神の延長で弱者に施そうとするが、トルコの鹿賀丈史ことネジャット・イシレルは彼女の優越感に満ちたその施しを拒絶する。息子の行動やてんかんはあまりにも唐突すぎたものの、夫婦げんかの延長線上で憐れまれるイスマエルの一家はたまったものではない。ヨーロッパに依然として強く残る階級差別や人種差別を根底にした衝動的ぶつかり合いの行き着く先は、残念ながらこのような小規模な内紛しか引き起こすことがない。ジェイランは人間の本質を鋭く突いた戯曲を、現代に相応しい形に翻訳する。階級闘争や人種差別が元で、そう簡単には分かり合えない他者との弱いつながりを見せた今作は、この年のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した。

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