【第631回】『引き裂かれた女』(クロード・シャブロル/2007)

 オペラに彩られ、赤に着色された車窓からの風景。景色はパリからリヨンへ、シャブロルお得意のゆっくりと滑らかな繋ぎが物事の深層を漂わせる。イメージは変わりゆく風景と共に、全面ガラス張りの虚空へと消え入る。車はある別荘の前に停まり、一拍躊躇った後、クラクションが鳴る。この躊躇いの意味は明らかにされることなく、我々観客は想像するより他ない。全面ガラス張りの打放しコンクリートの別荘。庭にプールが付いた豪勢な部屋から出て来たのは、人気作家シャルル・サン・ドニ(フランソワ・ベルレアン)。白いガウンを着込んだ男は葉巻をくわえながら、カプシーヌ・ジャメ(マチルダ・メイ)を迎える。バックドアを開けると彼の新刊本が山のように眠っている。都会の生活に嫌気がさし、田舎で半ば隠居生活を送るサン・ドニだが、右手が微かにカプシーヌの左手に触れている。奥様(ヴァレリア・カヴァッリ)は元気と尋ねたカプシーヌにサン・ドニは「彼女は聖女さ」と言いながらほくそ笑む。絵に描いたような初老のプレイボーイであるサン・ドニの描写は、これまでのシャブロル作品に通底していた勃起不全の男とは一線を画す。脚だけプールに浸かりながら、後ろの椅子に水着姿の妻と編集者が寝そべる異様な光景。老いてますます盛んなインテリ老人の描写は、妻だけではなく編集者との愛人関係をも暗喩する。

 隠居した中年作家の本のプロモーション。ケーブルテレビに出演したサン・ドニは、メイク室で新進気鋭のお天気キャスターであるガブリエル・ドネージュ(リュディヴィーヌ・サニエ)と鉢合わせする。男と女の鏡越しのカット・バック。プロのメイクさんにメイクを施された男の顔は素顔よりも3割素敵に見える。案の定、ガブリエルはそんな高名な作家の第一印象が強く残る。遅い仕事帰りにも関わらず、彼女の母親マリー・ドネージュ(マリー・ビュネル)は娘の帰りを待っている。真っ先にサン・ドニの印象を聞かれた娘は、母の問答に大した答えが浮かばないまま、中途半端に誤魔化す。だが女の好奇心はオム・ファタールを前に、運命のギアを踏んでしまう。母親の本屋で行われるサン・ドニのサイン会。好奇心で立ち寄った娘に対し、「今度の土曜日、オークション会場で会うのが楽しみだ」。文学好きの血を引く娘に不意に届けられたサインペンで綴る折り返しの文章。父親不在でファザー・コンプレックスを抱えるガブリエルはオム・ファタールの罠にいとも簡単に落ちて行く。そこに突如、1人の男が現れる。同い年くらいのお手伝いの運転で、マリー・ドネージュの本屋で横付けした高級車。そこから出て来た男は、かつてパリでサン・ドニと顔馴染みだった大富豪ゴダンス創業家の息子ポール・ゴダンス(ブノワ・マジメル)。リヨンから久方ぶりにパリへ戻った中年作家を冷やかすためにサイン会に訪れた男は、偶然出会ったガブリエルに心を奪われる。

 間宮と吉岡が黒沢清の映画にしばしば出て来たシンボリックな符牒だとすれば、クロード・シャブロルの物語にも『いとこ同志』以来、ポールとシャルルという対立軸が存在する。ガブリエル・ドネージュを巡る人気作家シャルル・サン・ドニとブルジョワジーのどら息子ポール・ゴダンスの構図は、『いとこ同志』から連綿と続くポールとシャルルの愛憎関係を繰り返す。長年、父性の不在を抱え、理想の父親のイメージを追い求めて来たガブリエルの心は一気にシャルル・サン・ドニへと傾く。中盤に出て来た「乱行」を暗喩させる会員制パーティの退廃は、真っ先に『いとこ同志』でセーヌ左岸にあったカルチェ・ラタンの売春宿「結座」を想起させる。物語の中には一度も「乱行」の描写は出て来ないが、シャブロルのフィルモグラフィを見れば、今作の靄のかかった部分が一目瞭然となる。才能のある中年男と、親に罪を帳消しにしてもらった芸術的才能ゼロの男の対比は『女鹿』のホワイとフレデリークや、『嘘の心』のルネとデモの対比にも近い。まるで『二重の鍵』のような鍵穴のクローズ・アップから幸福だった女は奈落の底に転落し、夢遊病のような廃人生活を送る。その時に手を差し伸べてくれた男にヒロインの心は傾くが、皮肉にも女の情念が男の病巣をえぐることとなる。これまでブルジョワジー一家の滅亡を静かに描いて来たクロード・シャブロルの手腕は、シャルルとポール、ガブリエルの三角関係それぞれに重い十字架を背負わせる。あまりにも陰惨で救いのないクライマックス。女の目に浮かぶ涙の退廃的美しさ。淀みない演出と神懸かり的な編集を見せる今作は、当時77歳とはとても思えない瑞々しさを漂わせる。『石の微笑』と並ぶシャブロル後期の紛れもない傑作である。

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