【第375回】『スティーブ・ジョブズ』(ダニー・ボイル/2015)

 2016年はスピルバーグが『ブリッジ・オブ・スパイ』でジェームズ・ドノヴァンという保険分野の弁護士を描き、ゼメキスが『ザ・ウォーク』で70年代の伝説のワイヤー・ウォーカーの活躍を思い入れたっぷりに描写し、実在の人物の伝記は幸先の良いスタートを切った。そして満を持してダニー・ボイルがスティーブ・ジョブズの伝説に彩られた光と闇の人生を描く。スティーブ・ジョブス-アップル社の共同設立者の一人として知られ、70年代に「Apple I」「Apple II」を開発し、84年にはグラフィカルユーザインターフェースを搭載したパソコン革命とも呼ばれる「Macintosh」を発表。後のApple社の隆盛の源流を創った偉人である。今更ここで述べるまでもない彼の生い立ちや様々な業績はジョブスの死後、翻訳され刊行された上下巻『スティーブ・ジョブズ』に詳しい。あの800ページにも及ぶ途方もないボリュームを映画化しようとすれば、それこそ膨大な時間がかかるのは言うまでもない。

そこで監督のダニー・ボイルと脚本家のアーロン・ソーキンが取った方法論が斬新である。この映画には彼の幼少期や思春期、アップル社創業時のエピソードはまったく出てこない。それどころか今作が真に奇抜なのは、彼の人生を3つの新作発表会の舞台のみに筋立てを集約したところにある。1つめは1984年の「Macintosh」の発表会、2つめは1988年の「NeXT Cube」の発表会、そして3つめがアップル社に復帰して「iMac」を発表した1998年の発表会であり、その間に挟まれたピクサー・アニメーション・スタジオの設立やNEXTSTEP開発、ビル・ゲイツのマイクロソフトとの業務提携に至る行き詰まる攻防、また未来のiPODなどの発表会や闘病の様子などは完全に無視し、ひたすら3つの発表会にのみ注力する。しかも肝心要の発表会のジョブスのスピーチは一切出てないのだ。では何を描いているのかと言えば、発表会の本番開始40分前からの仲間内のトラブルから、スティーブ・ジョブスの人となりを描こうとしているのである。

冒頭の84年の「Macintosh」の発表会では、本番で起動するはずのコンピューターが動かない事態が想定され、ジョブスは早くもピンチに陥る。省略しましょうという部下の進言(勇気ある撤退)を拒否し、彼は30分で何とかしろと部下に言い放つ。その楽屋裏へは元恋人のクリスアンが娘を連れて現れ、娘を認知しようとしないジョブスに当然の権利を迫るのである。何も発表会当日に無理難題をふっかけなくてもと思うが 笑、その後もアップル社を共同で立ち上げ、実質「Apple II」の開発者と言えるスティーブ・ウォズニアックとの不和、ペプシコーラから3年もの月日をかけて、アップル社のCEOにヘッド・ハンティングしたジョン・スカリーとの蜜月時代とその崩壊のエピソードを交えながら、ジョブスの人物像を浮き彫りにしていく。そのイメージはまさに合理的な決断を下すことが出来る圧倒的な才覚ながら、頑固で冷酷なエゴイストとしての顔を併せ持つ主人公の複雑な内面を感じさせる。特に「Local Integrated Software Architecture」の頭文字を取ったと公表されていた1983年発表の16ビットパーソナルコンピュータの秘密に迫る父親と娘との確執は胸に迫るものがある。ジョブスは彼女を認知しようとしなかっただけではなく、仕事人間で一貫して娘とその母親と距離を置き、娘Lisaは父性の喪失をただ黙って受け入れるのみである。

これが最初の発表会の内訳であり、ジョブスに訪れることになる因果関係の一覧なのだが、続く発表会でも最後の発表会でもまったく同じような(少しは変化しつつもほぼ構造は変わらない)親子関係の不和、共同創業者との不和、CEOとの確執が繰り返されるのには流石に閉口してしまった。それこそパソコン業界の日進月歩の成長と相反するかのように、彼らの怒り・不満・わだかまりというのは10年経とうが15年経とうがその根っこの部分は何一つ変わっていないことが何しろすごい。子供だったLisaはその間に19歳になり、ジョブスもウォズニアックもスカリーもそれぞれ年老いて青年期から中年期へと変わりつつある。おまけに闘病中の妻は途中退場してしまうのに、ジョブスの判断が会社を大きくするための経営者としての合理的判断のみなのは、この手の伝記モノの構成とは賛否両論だろう。実在の人物を扱った物語を描くときの一番のポイントは、監督と被写体との距離感に尽きる。その主人公にどれだけ愛情を注ぐことが出来たかにより、大きくクオリティを左右するのは言うまでもない。会場中に訪れた満員の観客のお目当ては何よりもジョブスのスピーチであり、そこで発表されたコンピューターそのものだったはずである。だがダニー・ボイルは一向にそのアップル社の新作を魅力的には見せてくれない。

スクリーンの黒が徐々に狭まっていき最後には小さな「i」を形作る独特なビジュアル、白いドレスの裾を触りながら娘が居心地の悪い父親の晴れ舞台を歩く姿、雨の中でスカリーと決定的に感情が相違する場面など、映像そのものはいつものダニー・ボイルの世界観とさほど変わりはない。だがどこまでもドラマ性が希薄で乏しい。むしろこのような三部構成は映画ではなく、舞台に相応しい演目ではないか?アーロン・ソーキンはフィンチャーの『ソーシャル・ネットワーク』では、ただの若者に過ぎなかったザッカーバーグの野心がやがて世界中を巻き込むムーブメントになるまでを実に丁寧に描いていたが、今作ではあまりにも奇抜な方法論を取っているため、84年88年98年という時代が点と点に留まり、どうしても線になっていかないのである。一応父性の欠如と回復とを物語の根幹に置き、しっかりと結んでいるものの、ダニー・ボイルがいったいスティーブ。ジョブスのどこに惹かれたのか?それが何とも判然としない作品である。

#ダニーボイル #アーロンソーキン #スティーブジョブズ #アップル社 #Macintosh

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