【第388回】『裸のキッス』(サミュエル・フラー/1964)
冒頭、もの凄い形相をした美人がカメラに向かって殴りかかる。その対象は女の売り上げをピンハネした娼館のオーナーだとわかるのだが、まるで全盛期のヒッチコックばりの細かいショットの連続が、バッグを使った暴力の烈しさを伝える。その上びっくりさせられるのは、美女の髪が勢いで地面に落ち、ヒロインとはとても思えない無残な丸坊主姿を晒すことである。あまりにもショッキングな導入部分を持った映画が今作『裸のキッス』である。女を丸坊主にするというということは、娼婦を囲い、逃げられるなくすることと同義であることは想像に難くない。オーナーはそうやって娼婦たちを最下層に閉じ込めようとするが、彼女は束縛をもろともせず、いとも簡単に環境からの逃避を試みる。それから2年が経過するも、そう簡単に娼婦の立場から這い上がることは出来ない。グラントビルという小さな町に、シャンパンのセールス嬢として現れる。ちなみに街の映画館ではフラーの前作である『ショック集団』が上映されている。警部のグリフ(アンソニー・B・アイスリー)は町で一目見た瞬間から彼女に惚れ、猛烈なアタックをかけるが、彼女は心を許さず、体だけをグリフに預けることになる。グリフは一夜を過ごした後、警部としての本能から町を去るよう忠告する。だが娼婦からの完全なる更生を決意したケリーは町に住居を見つけ、心機一転、身障者児童の福祉施設の看護婦として働き始める。導入部分では汚い大人に対し、暴力の鉄槌を食らわしたヒロインが子供達を前にした時、母親のような温和な表情を見せるのが実に印象的である。フラーは女の二面性へと観客をリードしながら、汚れてしまった女の苦悩と這い上がるための過酷な試練とを用意する。やがて町の若き富豪グラント(マイケル・ダンテ)に見初められた女は、熱烈なプロポーズをされるのだった。
子供達は身体に障害を持ちながら、ピュアな気持ちを抱えて、将来に希望を持って生き続けるが、それとは対照的に大人たちのギスギスした関係性があらゆる汚れをまとった偽善的姿として描かれる。この町における善人と言えるのは、警部のグリフと、ヒロインが借りるテナントのオーナーを務めるベティ・ブロンソンしか出て来ないという設定がまず凄まじい。汚れたヒロインが町の有力者に見初められる展開はシンデレラ・ストーリーを予感させるが、ヒロインの淡い希望をあっさりと踏みにじるサミュエル・フラーの社会警告は、前作『ショック集団』同様に胸に迫る。最初は街の人たちに部外者として好奇の目で見られていたヒロインと、長年、街の有力者として尊敬の眼差しを向けられていたグラントの関係性があっさりと逆転するクライマックス、ラスト・シーンの偽善者たる街の住民たちの心無い拍手と笑顔とは、まさにアメリカ社会の病巣を鋭くえぐるサミュエル・フラーならではの問題提起が光る。誰一人として自分を知る者がいない田舎町で、心機一転やり直そうと誓ったヒロインが、結局その田舎町でも悪意や欺瞞の目に晒されるというあまりにも夢のない物語をフラーは皮肉めいたタッチで描いている。
前作『ショック集団』では主人公の恋人のストリッパーを演じたコンスタンス・タワーズが、今作では後ろ指さされるようなうらぶれた娼婦を演じている。だが彼女は娼婦にまで立場を落としても、魂までは売り飛ばすことがない。ヒロインと身障者児童施設で同僚として働く女性が金に目がくらみ、娼婦にまで身を落としそうになるのを身を呈して防ぐ場面がある。ここでは自らの体験から彼女の防波堤になろうとし、しまいには売春宿の女主人に直談判に押しかける。同じ娼婦にまで身を落とした主人公と女主人の関係性でありながら、ここでの2人の態度はまるで違う。搾取する側と搾取される側の娼婦が正面から対峙し、導入部分のようなショッキングで突発的なヒロインの暴力に至る。口の中に25ドル札を入れる場面のセンセーショナルな描き方はまさに反骨の作家フラーの名場面であろう。それはプロポーズされた愛するグラントの裏の顔を見てしまった場面でも同様である。エリート警官に憧れながらも、一貫して日陰の街の門番をさせられる羽目になっているグリフの焦燥感や、グリフとグラントの友情や三角関係の描き方は多少物足りないが、その唐突な展開こそがサミュエル・フラーの真骨頂であり、旨味である。64年の作品としてはあまりにも鮮烈だったであろう小児性愛者の生々しい描写や、フィアンセに決定的場面を見られた男の転落を表現した狼狽する表情を据えたクローズ・アップからの突然の暴力の凄まじさは、50歳を超えたベテラン監督とは思えない強度を誇る。コンスタンス・タワーズが声高らかに歌う『Little Child (Daddy Dear)』の美しさも絶品である。「娼婦と倒錯者は同じ世界だ」と皮肉交じりに言われながらも、自由を信じたヒロインの生き様が胸に迫る。途中まではシンデレラ・ストーリーを地で行くメロドラマ的な展開、それをクライマックスで破壊し、アメリカの欺瞞を暴こうとするフラーの鮮やかな手捌きは未だに色褪せない。
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