【第417回】『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります』(リチャード・ロンクレイン/2014)
ブルックリンの散歩道に年老いた黒人と一匹の犬が歩いている。交通量が多く、人通りの激しい表通り、路面店が立ち並ぶストリートからは、店主の気前の良い馴染みの挨拶が聞こえて来る。彼はニューヨークの街に40年暮らす画家アレックス・カーヴァー(モーガン・フリーマン)という初老の男。妻に頼まれたお使いをしながらも、愛犬ドロシーに引っ張られるでもなく、ゆったりとした足取りで優雅にブルックリンの街を闊歩する。ニューヨーク・タイムスは買えなかったが、いつものように自分と妻の分のコーヒーをトレイに乗せると、長年住むアパートメントの前に降り立つ。だが目の前に拡がるのは果てしなき階段と永遠に続きそうな距離。目が眩むような試練の中、アレックスは覚悟を決めたかのように一歩目を踏み出す。しかし愛犬のドロシーはその一歩目をなかなか踏み出すことが出来ない。年老いた夫婦の物語と言えば想起される終着点は妻あるいは夫の死であるが、まるでその物語構造を予期し、回避するかのように、夫でも妻でもなく、愛犬が病に倒れる。床でのお漏らしの後、妻に抱えられた瞬間に悲鳴を上げた愛犬の症状は医師曰く「椎間板ヘルニア」らしい。翌日に40年住み慣れた部屋を手放すための内覧会を控えた夫婦は、深いダメージを負いながらその日を迎えることになる。
あらゆる人種や性別、職業さえも受け入れる「人種のるつぼ」たるニューヨークの街並み。最初に話しかけてきた男の褐色の肌にも明らかなように、アメリカ中で最も部外者を受け入れてきただろう由緒あるニューヨークの街並みは、9.11の惨劇以降、少しずつ様変わりしている。子供のいない夫婦に降って沸いた愛犬の死の予兆は、偶然にもブルックリン橋で起きたテロ事件と同時刻に起こり、タクシーでの動物病院への道のりは普段の何倍もの時間を要する。ニューヨークの狭い交通網は麻痺し、我先にニューヨークを脱出せんとする勢いの中で、当の夫婦は脱出など考える余裕もないままに、愛犬ドロシーを一旦病院に緊急入院させる。40年この街に住み慣れた夫婦には、ニューヨークの街を離れる気は毛頭ない。アドバイザーのリリー・ポートマン(シンシア・ニクソン)の案内のもと、カーテンを開け、光を取り入れ、雑然とした部屋を綺麗に片付けた夫婦はシナモンの香りを漂わせながら内覧会の朝を迎える。ブルックリンの街を一望出来るアパートメントの最上階、オマケに屋上には家庭菜園ありという条件が功を奏したのか、買い手は次々に現れ、引く手数多の様相を呈するが、妻のルース(ダイアン・キートン)の嬉しい悲鳴をよそに、アレックスの表情は終始浮かない。人嫌いの皮肉屋である彼の元に寄り付く人間などいないが、唯一黒縁メガネの少女だけが彼に懐きながら、アレックスの核心を突くような哲学的な言葉を投げ掛けるのである。
金融関係者夫婦、盲導犬を育てる家族、辛辣な整形医師、冷やかしで内覧会巡りをする親子など、個性豊かな面々が内覧会に集う中、夫婦は40年間住んだ家を売り、新たに終の住処となる部屋を探している。彼ら夫婦のエンディング・ノート作りは順調に進んでいるかに見えるが、愛犬の入院と共に忍び寄るテロの恐怖が、物件価値の上下動となって夫婦の生活に静かに影響を及ぼす。今回のテロ騒動は直接、夫婦を標的にはしないものの、結果的にニューヨーカー全員と新たにニューヨークに移り住もうとする人々の生活を脅かす。今回のテロ騒動はあまりにもタイムリーな事件として、地価の上下動を促し、それに翻弄されたカーヴァー夫婦は平和な日常の中で、何度も物騒なニュースをテレビ画面から目にすることになる。何度かの回想シーンが指し示すのは、モーガン・フリーマンとダイアン・キートン夫婦の強い絆に他ならない。彼らが夫婦の契りを結んだ40年前と言えば、今のように白人と黒人の結婚が当たり前ではなかった時代を意味する。それはルースの家族にも例外なく不和をもたらすことになる。普通に結婚し、白人の子供を身籠った姉妹の幸せに対し、母親の暗黙のプレッシャーが娘との不和を生む70年代のカフェの場面の息苦しさ、当初は画家とヌード・モデルだった関係性が強い信念としての夫婦生活40年間を育むきっかけとなる。それが最愛の人と結婚しながら、生涯子供を授からない決断をした夫婦の生き方である。その後の人生の指針ともなるラスト・シーンの決断にはうっかり涙がこぼれそうになる。真にリベラルな夫婦の決意表明は、9.11以降のテロ行為を経ても決して揺らぐことはない。その普遍性に心打たれる。
#リチャードロンクレイン #モーガンフリーマン #ダイアンキートン #シンシアニクソン #ニューヨーク眺めのいい部屋売ります
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?