【第632回】『刑事ベラミー』(クロード・シャブロル/2009)

 ジョルジュ・ブラッサンスの『パリジャン気質』の口笛によるメロディ、エメラルドの海を見渡す場所に立つセート墓地、懐かしいジョルジュ・ブラッサンスの墓石はここに眠る。カメラはクレーンでゆっくりと動きながら180度切り返すと、断崖絶壁の向こうに海が見えて来る。崖の方に近付き下を見降ろすと、焼け焦げた車が見え、所々まだ煙が上がっている。側にはハンドルを握ったまま焼死した人間の姿。首から上はすっかり焦げて転げ落ちている。一方その頃、パリの警視ポール・ベラミー(ジェラール・ドパルデュー)はヴァカンスを過ごすために、妻フランソワーズ(マリー・ビュネル)の故郷の近くにあるニースに静養に来ていた。ソファーに寝そべりながら、クロスワード・パズルを楽しむベラミーはその体勢のまま眠りこけている。TV画面では、崖の下の焼死体は当初、エミール・ルレという保険会社社員のものと見られていたが、別人と判明したことが明かされる。ソファーに寝そべる夫は突然目を覚まし、クロスワード・パズルの余白部分に「至福」と「幸福」の単語を入れる。妻はキッチンで作業しながら、居間にいる夫と会話を交わす。ベラミーの姿を庭先からじっと見つめている男がいる。男は3日間、回想録で有名な警視の元に通い続けていた。妻は気味悪がって取り合わないが、ベラミーは職業病から彼の電話番号をメモする。妻の馴染みの歯医者とのディナーを終えて、キッチンでいちゃつくベラミーの元に、突然の電話が鳴る。電話をかけて来るような時間じゃないだろとベラミーは語気を強めるが、電話の向こうのノエル・ジャンティ(ジャック・ガンブラン)の様子が気がかりで、いそいそと出かけて行く。

 冒頭の2人のジョルジュへ捧ぐというシャブロルの弔辞は、前述の墓石のジョルジュ・ブラッサンスと、ミステリー作家ジョルジュ・シムノンに他ならない。ジョルジュ・シムノンの代表作となった『メグレ警視』シリーズを彷彿とさせるポール・ベラミー警視のキャラクター造形。取るに足りない三面記事をブラッシュ・アップさせた物語構成、24時間365日プロフェッショナルとしての警視の仕事、捜査に専念するたびに家族に起こる不和などは『メグレ警視』シリーズと同工異曲の様相を呈す。妻は仕事人間の夫を何とか事件から引き離そうとするが、ノエル・ジャンティがもたらした報せが彼を事件の迷宮へと導いて行く。刑事が主人公で、犯人が自分から刑事にすり寄って来たとなれば、主人公が事件の真相をゆっくりとだが確実に暴いて行くのがミステリー映画の定石だが、シャブロルはベラミーとノエルの事件をめぐる駆け引きを本線としながらも、逸脱の塊のような弟ジャック・ルバ(クロヴィス・コルニアック)を複線として紛れ込ませ、シンプルだった物語構造は途端に複雑になる。シャブロルは自身のフィルモグラフィにポールとシャルルの鏡像関係を好んで登場させたが、今作も例外ではない。原題となったベラミーはモーパッサンの「Bel Ami」が語源の「美貌の友」という言葉に起因するが、ベラミーの名前は紛れもないポールであり、妻がフランソワーズという発音なのも、『いとこ同志』のフロランスを彷彿とさせる。

 回想録で有名なポールとは対照的に、弟ジャックはつい先日、刑務所から出て来たばかりの出来の悪い弟である。弟は精一杯の思いを込めてお土産を兄夫婦に渡すが、アンス酒は酒立ちをする兄に、ヌガーも歯医者通いの妻にことごとく拒否される。弟がスクリーンに登場した瞬間、チャイコフスキーの『悲愴交響曲第6番』が大音量で流れるが、芸術嫌いの弟はその旋律を毛嫌いする。異父兄弟の家はすっかり没落し弟は堕落しているが、ポール・ベラミーは妻の叔母の遺産で優雅な生活をしながら、地元の名士として国家権力の名の下に任務を遂行する。兄弟の経済格差がことさら強調されるのは、妻フランソワーズがお世話になっている歯科医の夕食会の席である。同性愛のパートナーが腕を振るった食事、世界各国を周り続けるブルジョワジーの自慢話に弟ジャックはとても付いていけない。堕落した男はブルジョワジーの家主のコートのポケットから2000ユーロをくすねる。要領の良い男と何もかも上手くいかない男の描写はここでは異父兄弟の構図にトレースされる。本来ならば弟ジャックに向き合うはずのベラミーの心は、ジャック、ノエル、エミールの3つのキャラを往来するジャック・ガンブランによって現される。「目に見えぬ別の物語がある」というW・H・オーデンの言葉はシャブロルの生涯に渡る哲学をも代弁する。世界の不均衡を綴る51本もの映画を残し、クロード・シャブロルは2010年に今作を撮り終えた後、80年の生涯を閉じた。

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