【第428回】『ボーダーライン』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2015)

 アリゾナ州の荒野にポツリと佇む一軒家。その四方を物々しい集団が取り囲む。いま突入しようとしているのはメキシコの麻薬シンジケート「ソノラ・カルテル」の所有するアジトである。FBIの誘拐即応斑のリーダーで紅一点のケイト・メイサー(エミリー・ブラント)の突然の訪問は成功したかに見えたが、薄壁の中には幾つもの直立不動の腐乱死体が並べられ、顔にはビニール袋が被せられている。死体の一部は遜色が激しいが、どれも全身血だらけの壮絶な光景であり、薄壁の隙間から強烈な腐敗臭がする。庭に出た彼らはもれなく嘔吐し、同僚の警官2人が離れにある物置を物色する。そこで悲劇は起こる。かくして捜査は進展せず、シャワーに頭の裂傷を当てながら、女は作戦の失敗と同僚の死を同時に嘆いてみせる。FBIのガラス張りの会議室の内と外。上司たちの会議の模様を横目に見たケイトと同僚のレジー(ダニエル・カルーヤ)の表情は冴えない。スーツ姿に革靴のお偉方の集団に、一人だけ場違いなサンダル履きのカジュアルな男がノイズのように混じる。やがてケイトは呼ばれ、サンダル履きの男は単刀直入にシンプルな質問をする。結婚しているか?子供はいるか?こうして正義の人エミリーは特別捜査官マット・グレイヴァー(ジョシュ・ブローリン)と思いがけず出会う。エル・パソへ向かうと嘘をつき、飛行機はエル・パソを越えてメキシコ側であるフアレスへと到着する。おそらくこれが邦題『ボーダーライン』の一つ目の意味だろう。何も知らされていないエミリーはただただ困惑するが、そんな彼女に対し、同乗したグレイヴァーの相棒のアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)は「お前たちアメリカ人には到底理解出来ないだろう」とまるでハンニバル・レクターのような意味ありげな言葉を投げ掛ける。

これまでのドゥニ・ヴィルヌーヴのフィルモグラフィを見守ってきたものとすれば、エミリーとアレハンドロの出会いが、後に合わせ鏡のような意味を持つことは容易に想像出来る。『灼熱の魂』ではレバノンに行き、母親が築いたもう一つの家族を探す過程で、主人公は自分の内面に潜む他者の姿を目撃する。『複製された男』では自分そっくりな赤の他人に興味本位で近付くことで、自らの中にいる他者の存在に気付いてしまう。『プリズナーズ』では娘を誘拐された父親が、容疑者の男に目星をつけ、監禁し拷問を加える。刑事も刑事でこの誘拐事件を追ううちに、真犯人の目星をつける。それは実は別人なのだが、被害者と刑事は互いに同一化し、やがて悲劇を生む。ドゥニ・ヴィルヌーヴ作品の根底にあるのは、多重人格と自己同一化の心理プロセスである。今作でも物語の本線ではアメリカ・メキシコ国境(ボーダーライン)沿いの麻薬戦争の黒幕を探す捜査なのだが、一方でその複線として心のボーダーラインをいとも簡単に踏み超えるアレハンドロに支配されたケイトの心理的葛藤を示すのだ。自由と正義を追求したアメリカ側の女ケイト・メイサーと、メキシコから移民として出て来たよそ者であるアレハンドロとの、まるでハンニバル・レクターとクラリスのような猟奇ミステリーの構図は圧巻である。橋の上に宙づりにされた4つの死体、首までびっしりと刺青の入ったメキシコ系ギャングとの高速道路での銃撃戦、アレハンドロの拷問などダイナズム溢れる演出は苛烈を極める。凝視したくない悲惨な映像の数々はケイトの心にも侵食し、正義とは何かと自問自答する憔悴したヒロインの姿を映し出す。かつて『フレンチ・コネクション』や『スカーフェイス』に代表されるようにLAやフロリダの街が麻薬に汚染された土地として出て来たが、今やアメリカ全土から麻薬は一掃され(一部の州では合法化もされている)、ボーダーラインの外側で怪しい巨悪とビッグ・マネーは蠢く。こうして危険地帯は30年の間に少しずつアメリカ大陸を南下し、テキサスやエル・パソを飛び越え、フアレスへと場所を変える。

地上で人間たちがあくせく働く一方で、場面転換に用いた無人ショットの異様さが息を呑む。高速道路の渋滞、ゴツゴツとしたフアレスの山肌を捉えた印象的な空撮ショット、夜の街で繰り広げられる無数の射撃(花火)。ロジャー・ディーキンスの無人ショットと夜景ショットの連なりは息を呑むほど素晴らしい。じっくりと構えられた審美的構図、ゆったりとした時間の流れはその後に来る活劇的場面とのメリハリとなり、実に効果的なリズムを織り成す。拷問の後の排水溝のアップからもわかるように、実態化しない数々の歪なイメージが登場人物たちの心情を緩やかに侵食する。FBIのエリート捜査官が初めて出会う強大で手の施しようもない奇怪な化け物。それは決して麻薬シンジケートのリーダー・ディアスではなく、アレハンドロだという妙味が今作を特徴づける。女としての幸せは脇に置き、セクシーさの欠片もないスポーツブラを一週間替えもせず、田舎の酒場でテッドというとんでもない地雷の芋男を踏んでしまうケイトの焦燥感は、彼女が禁煙の約束を破り、狂ったように吸い始めるタバコの煙にも明らかだろう。大枠の物語の中に幽閉された彼女は、まるで『羊たちの沈黙』のクラリス・スターリング(ジョディ・フォスター)や『エイリアン』シリーズのエレン・リプリー(シガニー・ウィーバー)のように形而上の世界でもがき苦しむ。だが彼女の活躍はクラリスやリプリーと比するとあまりにも物足りない。ジョシュ・ブローリンに対しては拳で歯向かう場面もあるにはあるが、アレハンドロの巨大な力を前にすれば簡単に彼女の尊厳は踏み躙られる。なぜ現代の正義のヒーローはこうまでして影の部分を背負わなければばならないのか?小型ジェットの中で悪夢から目覚めたベニチオ・デル・トロが発した声にもならないうめき声のハッタリ感、全てを達観したような顔でケイトやレジーに状況を説明するジョシュ・ブローリンの壮大なペテン師ぶりからはその後の活躍は想像さえ出来ない。

唯一であるが決定的な問題は、一見完璧に見える脚本の出来の悪さだろうか。本線に麻薬シンジケートの撲滅を掲げながら、監督はむしろヒロインの心へのアレハンドロの絶対的支配と服従へと傾斜する。導入部分で提示された壁の裏にびっしりと磔にされた腐乱死体は明らかに猟奇ミステリーの典型的な描写なのだが、その残酷な光景を実行・支持したのはアレハンドロではなく、「ソノラ・カルテル」のリーダーであるディアスである。エリート捜査官扮するヒロインを危機に陥れるのがアレハンドロなのか?それともディアスなのか?これではあまりにも判然としない。このラスボス2人の描写がミスリードを誘発するためにあえて取られた措置なら致し方ないが、それにしてはあまりにもディアスの描写が少ない。むしろ監督はディアスよりも汚職に手を染めたメキシコ人警察官をこそ丁寧に描いている。中盤出てくるブレスレットの描写も安易といえば安易で、組織との関係性を隠したい警察官があんなものを付けているはずはない。二重三重に積み上げたトリックと焦点ずらしも随分芸がない。いも引いた女の危機を救う男がどうしてオートロックで施錠された部屋に入ることが出来たのか?他にも数々の矛盾を論えたらキリがないほどに、ご都合主義の描写が幾つも散見される。描きたい壮大な世界に対し、ダイナミックなショットの数々は目を見張るものがあるし、何よりベニチオ・デル・トロ、ジョシュ・ブローリン両名の力強い怪演もあるが、肝心要の物語が今ひとつ判然としないまま、右に左に頼りなく揺れる。それでもこれまでのフィルモグラフィの中ではNo.1の傑作であり、いまのハリウッドにはない気骨を感じる。昔はこういう骨太な監督はハリウッドにも数限りなくいたのだが、現代ハリウッドの相関図を紐解くと、このカナダ人監督の存在感はあまりにも貴重である。

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