【第413回】『自由の代償』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/1975)

 ミュンヘンで開かれる祭、ドイツ人で賑わう通りに一台の車が現れる。運転手は人混みの様子をじっと伺い、ある見世物小屋を静かに凝視している。人が群がる小屋では、エルビス・プレスリーのような格好をした男がおもむろに3人の女たちをステージに招き入れる。これからいかがわしいストリップ・ショーが始まるのだ。淫靡なショーが始まるまさにその矢先、私服警官がやおら舞台に上がると、興行主に手錠をかける。まるで『ナッシュビル』や『タクシー・ドライバー』の大群衆シーンのような壮大なカタルシスを持ったこの映画はこうして唐突に幕を開ける。私服警官に強引にパトカーに乗せられ、連行されそうになる興行主を案じて、舞台袖から1人の男が姿を現す。「しゃべる生首」として前座で芸を披露しながら、興行主の同性愛パートナーとして生きる青年で、両親のいない彼の唯一の身寄りは酒浸りの姉(クリスティアーネ・マイバッハ)だけだ。名もなく貧しい青年は、自分の運試しをするかのように、毎週ロトを買うことだけを唯一の楽しみとしている。このフランツ・ビーバーコップという名の青年を演じるのは、ファスビンダー自身である。この名前は『出稼ぎ野郎』、『悪の神々』、『アメリカの兵士』に続き、実に4度目の登場を果たすファスビンダー作品に通底する馴染みのある名前である。アルフレート・デーブリーンの長編小説『ベルリン・アレクサンダー広場』の主人公からモチーフを得ているのは云うまでもない。

一瞬にして路頭に迷うことになった主人公は、自分の体を売りながらなんとかその日暮らしをしている。公衆トイレでよく知りもしない男性の陰茎を咥えながら生きる青年の未来は真っ暗闇の中、そこに奇跡のような新たな出会いが待ち構える。骨董商マックスとの出会いの場面は同性愛者ならではのリアリティを伝える名場面であり、後にモロッコでファスビンダーの実際のパートナーだったエル・ヘンディ・ベン・サレムとの出会いの場面でも反復される。フランツは最初思わせぶりな視線を投げかけながら、少し離れたところで男を見つめ、次に男が追ってくるかどうかを試すのである。この明らかに階級の違う男との出会いから、続くオイゲン(ペーター・シャテル)との出会いはまるで奇跡のようなシンデレラ・ストーリーの様相を呈する。かぼちゃの馬車のごとき車に乗り込み、宮殿ではなく同性愛者専門のサロンに招かれたフランツ・ビーバーコップは、見世物小屋の日常とは一味も二味も違う上流階級の暮らしぶりを知り、オイゲンの熱烈な歓待を受けることになる。更に毎週買っていたロトで50万マルクもの大金を当て、二重の喜びに打ち震える。彼は救いのない最下層の生活から逃れる術を一瞬にして手に入れるのだ。赤い絨毯の敷いてある豪勢な邸宅、かつての興行主とは違うハンサムで陰茎も大きいパートナー、上流階級というステータスを一夜にして手に入れたフランツ・ビーバーコップは、近い将来、パートナーであるオイゲンとの幸せな結婚生活と印刷会社の共同経営を夢想するのである。

だがその夢はファスビンダー映画の中では脆くも崩れ去る運命にある。その一番の要因はやはりオイゲンとビーバーコップの階級差であり、ライフスタイルの違いであるが、彼らの出会いに50万フランもの大金をもたらしたロトが全ての元凶だったのかもしれない。2人の聖域で流れるビーバーコップが幼少期に好きだった歌謡曲とオイゲンのオペラの対比、セレブの嗜みであるチョコレート風呂の居心地の悪さ、食事中にパンを浸して食べる下品な習慣への怒り、一張羅を選ぶ際の色や生地のことごとく合わない趣味など、実に様々な対比がオイゲンとビーバーコップの決定的不和につながるのだ。そのことが結びの悲劇的結末を予感させる。クライマックスの駅構内での凄惨な光景からは思わず目を背けたくなる。イングリッド・カーフェンの歌う『シャンハイ』と実に対照的な陰惨かつ残酷で忘れることの出来ない強烈な場面である。背中に「FOX」と刺繍されたGジャンを着ながら、どこかアンニュイな表情を浮かべるビーバーコップの分裂した姿に、我々はかつての独裁者のようなファスビンダーとは似ても似つかない悲しい女の姿を見ることになる。

#ライナーヴェルナーファスビンダー #クリスティアーネマイバッハ #ペーターシャテル #イングリッドカーフェン #自由の代償

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?