【第423回】『ルーム』(レニー・アブラハムソン/2015)

 5歳になったことが嬉しくて、周りにある家具にいちいち触れて回るユニークで口達者な男の子ジャック(ジェイコブ・トレンプレイ)。傍らには彼の母親ジョイ(ブリー・ラーソン)が息子の健やかなる成長を見守っている。親子の緊密な距離感をことさら強調するように、カメラはステディカムで2人の躍動する姿を至近距離から映し出す。一緒に歯磨きをし、ご飯を食べ、ストレッチをし、壁から壁までの往復を何度も繰り返す親子。テーブルと椅子、ベッド、テレビと本棚、流しにトイレ、食器棚に洗面台、一通りの家具が揃った部屋は雑然としており、あまり広くない。壁には息子が書いた幾つかの絵が飾られており、5つまでの歩みを体現するかのようだ。この部屋にはなぜか窓がないが、一番印象的なのは天窓から青い空が見えることだろう。様々な季節を通り過ぎ、昼は夜へと変わり、また次の朝が来る。しかし天窓をくり抜いた天井にはどういうわけか防音材が敷き詰められている。トレーラーハウスや広めのコンテナのような空間で彼らはいったい何をしているのか?ほどなくして驚愕の事実が明かされる。今作はオーストリアで起きた「フリッツル事件」を元にしたエマ・ドナヒューの小説『部屋』を原作としている。「フリッツル事件」とは実の父親に24年間監禁され、7人の子供を生んだ実娘監禁事件として2008年に公になったので記憶している人もいるかもしれない。エマ・ドナヒューは実父を赤の他人に変え、7人の子供を1人の子供にし、上巻下巻に及ぶ熾烈な誘拐劇を書き上げた。映画はこのベストセラー小説の映画化であり、実際に脚本はエマ・ドナヒュー自身が務める。

母親の息子への告白により、緊密に見えた親子関係は暗転し、狭い部屋に閉じ込められた親子はまさにパニック映画の様相を呈する。息子がクローゼットの隙間から犯人の姿を声を押し殺して見つめる姿はジョン・カーペンター『ハロウィン』やデヴィッド・リンチ『ブルー・ベルベット』を今さら例に出すまでもなく、完全にホラー〜猟奇ミステリー映画の常套手段である。従来のハリウッド映画の構造であれば、猟奇殺人映画のある種の傾向に則り、演出が施されてもおかしくない。しかしながら今作はそれら猟奇殺人映画とは趣を異にする。一昨日レビューしたアトム・エゴヤン『白い沈黙』と比較すると大変わかりやすいが、小児性愛者とは子供を産ませたらそれで満足とはならない。彼らは何らかの深い精神疾患を抱えており、被害者女性への迫害は果てしなく続く。だが今作の設定では、どういうわけか男は1週間に1回しか彼女を見に来ることはないほど被害者への興味を失っている。この執拗ではない犯人の造形に多少疑問が湧くのが1つで、もう1つは犯人が急速にグローバル化しつつある社会の中で、リストラされ居場所を失っていることにある。これは9.11やリーマンショック以降の物語で繰り返されるモチーフだが、ハリウッド映画の構造で言えば、猟奇犯罪者にこのような社会からの孤立や葛藤の描写が必要だったのかは甚だ疑問である。実際に明らかに主導権を握っているのは、暗証番号を知っているはずの猟奇犯罪者側ではなく、被害者である母親なのである。彼女はマインド・コントロールされ、赤の他人の支配下にいるのだが、一度しかない最期のチャンスを虎視眈々と狙う。息子は5歳にもかかわらず、母親の子宮内の延長線上におり、この狭い空間とテレビの中しか信じない息子を外の世界へ連れ出そうとするのだ。しかもたった1人で・・・

かくして無菌状態での子宮内部のような生活から一転し、ノイズが幾重にも絡み合う絶望の世界にいきなり放り出された5歳の息子。カメラは彼の想像を絶する体験を追うように、視界を歪め、音声さえも不明瞭にする。猟奇犯罪者の頭脳はたかが5歳の子供の知能になど負けるはずがないが、映画は幽閉された部屋からの脱出をいとも簡単に成し遂げ、次の段階へと向かってしまう。実はこのことが後にあまりにも大きな意味を持つ。原作小説『部屋』の上巻・下巻の副題としてそれぞれ、「インサイド/アウトサイド」と区分されるように、実は親子にとって地獄のような監禁生活から下界に戻ってからが本当の苦難の道となる。そこには「セカンドレイプ」の問題が横たわる。弱者とも言える被害者に民衆がどれだけ同情しても、被害者にとっては過剰な報道や哀れみの目が苦痛にもなり得る。幾多の戦争映画やロバート・ゼメキス『キャスト・アウェイ』を例に出すまでもなく、7年の月日が経っても、家族の緊密な関係性や深い絆が持続しているとは限らない。残念ながらジョイの父母は離婚し、母親は今は新しい夫のレオ(トム・マッカムス)と暮らしている。その事実だけでも打ちのめされるのに、彼女の父親ロバート(ウィリアム・H・メイシー)はジャックが娘の子供でありながら、猟奇犯罪者にレイプされ、孕まされた息子であることのアンビバレントな苦悩を公にする。彼は決して元妻が新しいパートナーと仲良く暮らすことに嫉妬しているのではなく、自分の娘が犯罪者の子供を身籠り、育てていることが我慢ならないのである。この家族の亀裂を現した食卓の場面が象徴するように、1つの犯罪が及ぼす波紋に家族全員が苦悩する。

ジョイと母親ナンシーとの言い合いの場面で、あなただけが苦しんでいたんじゃないと一瞬言い放つ場面があるが、その言葉は物事の本質をえぐるような深い葛藤の言葉に他ならない。外の世界に出れば、ジャックにはジャックの克服しなければならない大きな壁があり、ジョイにはジョイの壁がある。各人が克服しなければならない壁はまるで複雑なレイヤーのように幾重にも張り巡らされ、ママが取り戻すべきアイデンティティはジャックを絶対的な拠り所とはしないのである。LEGOを強制的に息子にさせる場面に象徴的なように、その厳格な判断と突き放し方にはジョイのアイデンティティの問題が根付いているのは云うまでもない。失われた7年を取り戻すのは容易ではないのだ。またジャックとレオというまったく血のつながりもない遠い家族の描写において、監督と脚本家は血縁関係がないからこそ、濃密な関係を築くことが出来た彼らの絆を静かに提示する。ジャックが長く伸びた髪をばっさりと切る場面をあらゆる角度から捉えながら、病床に伏せる母親が受け取る場面は一切見せない大胆さも結果的に成功している。ラスト・シーンの母子ともに見える実感を伴う成長には思わず涙が溢れた。『リリーのすべて』の撮影も担当したダニー・コーエンのカメラワークは手堅さから一転し、少々再起走る側面はあるものの、トータルで見れば善戦している。いかにも低予算と云うべきプロダクションと演者の面子だが、逆説的にハリウッド映画として構築されなかったことが勝因となった稀有な作品である。その空気感と真摯な優しさが胸を打つ。

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