【第362回】『オデッセイ』(リドリー・スコット/2015)

 オレンジ色に見える荒涼とした土地、砂漠のような砂煙の大地。地球から遠く離れた火星で、NASAの探索チームが地球との交信の中、厳重な作業をしている。彼らはNASAから3度目となる有人探査の任務を受け、選ばれた少数精鋭部隊で別名「アレス3」と呼ばれている。ミッションに入ってほどなくして、地球から猛烈な砂嵐が来襲するという報が入り、火星に降り立って間もない彼らは撤退を余儀なくされる。この土地はもちろん、酸素が無くなければ死に直結する地球とは違う環境であり、ある程度は気候の予測を立てていたはずのNASA本部も急な嵐の到着を予感していない。何から何まで不幸続きの中、事件は起こる。ルイス以下6人の作業員の一番しんがりにいたはずの男が、砂嵐で視界不明瞭な中、アンテナの直撃を受けることになる。地球で言えば突然ハリケーンの中心にいるような猛烈な嵐の中で、宇宙飛行士たちは彼に応答を試みるも、その返事は返ってこない。ルイス隊長は1人の命を守るために、5人の乗務員を危険に晒すのか?彼の命を守るのか?厳しい選択を迫られることになる。

その厳しい状況の中で、彼女は極めて現実的な判断をし火星を離れる。地球のNASA本部も事故の状況から、マーク・ワトニー(マット・デイモン)の生存を絶望視する中、彼は砂漠のただ中で息を吹き返す。それはまさに奇跡的な状況であり、神懸かり的な人間の生への強い欲求であろう。意識が戻った途端、人間は傷口が痛み出すという当たり前の感覚を呼び起こされる。まず彼は密閉された部屋へと戻り、患部に応急処置を施し、生き続けるための計算を始めるのだが、地球との通信手段は断たれた上、次のミッション“アレス4”が火星にやってくるのは4年後。一方、生存に不可欠な水も酸素も残りわずかで、食料すらもたった31日分しかない。だがそういう状況の中で火星に順応し、何とか生存しようという本能と知恵を働かせる。その姿はロバート・ゼメキス『キャスト・アウェイ』のトム・ハンクスとどちらが過酷だろうか?幸いなことに、食料を自給自足するために、彼の宇宙飛行士とは別のもう一つの経歴「植物学者」が火星でのサバイバルのヒントとなる。

もともとはアンディ・ウィアーのベストセラー小説『火星の人』の映画化なのだが、誤解を恐れずに言えばこのプロットは映画に不向きな小説と言ってもいい。火星に一人置き去りにされ、外部との通信手段を絶たれるという主人公の孤独な描写が、映画に適度に必要な人と人との会話や視線の交差をあっさりと奪ってしまう。主人公は最初、自分が死んだ時のために記録としてレコーダーに映像と音声を残し始めるが、当然彼の言葉に対して返答はない。リアクションのないことに対して主人公はアクション(行動)を積み重ねていくのである。彼の生存本能を発揮する一連の行動の数々が、地球におけるポジション・トークの息詰まる心理戦と交互に繰り返されていく。ただもともとの小説の設定上、致し方ないことなのかもしれないが、今作が近年の映画の流行りのように実話に基づく物語でないならば、妻やパートナーとのやりとりや、ワトニーの両親の描写を少しでも入れるべきだったろう。あとはNASA内部の思惑と葛藤も、緻密な心理戦を盛り上げるためにはサンダースとヘンダーソンのあのやりとりだけでは今ひとつ弱い。中盤、重要なアイデアをもたらした黒人がワトニーとコミュニケーションを取らないのも、登場人物を十分に活かしているとは言い難い。

しかしながらリドニー・スコットの素晴らしさはビジュアル面で発揮されている。辺境の惑星でエイリアンに襲われるわけでもなく、火星は気候変動や自然災害の力によってのみ人間の侵略を阻むことになるのだが、まず火星の荒涼としたオレンジの砂漠地帯の中に、マット・デイモンがポツリ佇むロング・ショットの有無を言わさぬ神々しさが素晴らしい。しばしば人間は広大な未知の地に降り立つと無力さとちっぽけさを実感させられる。その環境で人間が生きていくためには、知力・体力・経験値など様々な能力が必要とされる。密閉された宇宙服を着込んだ状態で砂を掘り返すことの身体的つらさ、突如外気と内気が裂け目により一瞬触れた時の水蒸気爆発、彼の身には一時の平穏も訪れず、火星の風景をじっと眺めたり、星空を見つめるような暇もない。この火星の不条理とも呼びたくなる有無を言わさないそこにただあるだけの自然の恐怖を、リドニー・スコットは細部まで徹底した火星のビジュアルで描いている。VFX時代には当たり前のように見える宇宙船や宇宙服のディテイルの素晴らしさも目を見張るものがある。リドニーと言えばビジュアル派でもあるが、既存の楽曲による音の使い方も今作では功を奏す。ワトニーがルイス隊長のディスコ・ミュージック趣味を極端に揶揄する場面があるが、彼の言動とはアンビバレントに劇中に散りばめられるディスコ楽曲の牧歌的快楽と、置かれている極限状態との対比がすこぶる効果的に迫ってくる。その中でも特に地球が一枚岩になった際のデヴィッド・ボウイ『スターマン』の使用にはイギリス出身の監督ならではの選曲眼とアイデアが光る。

映画全体のバランスとしては、火星での突然の砂嵐から孤独なサバイバル生活といった前半部分にシリアスな場面が集中し、後半はマーク・ワトニーの人間力や生存本能がやや後ろに下がってしまったのが気になった。途中、NASAと中国との技術提供のエピソードも、英国人ならではのギリギリのユーモアが感じられる。アメリカ人であれば普通ああはならない。クライマックスの宇宙を浮遊する場面で、ようやく21世紀的な『ゼロ・グラヴィティ』的世界観が色濃く感じられる。無重力状態の持続の緊迫感が、逆説的に人間の生の尊厳を際立たせる真に美しく息を呑む名場面である。出来ればもっとあの緊迫感をスクリーンで体感したかった。NASA内のポジション・トークによる心理戦にも、宇宙飛行士5人の合議制のミーティングにもマーク・ワトニーの姿はない異色の心理劇だが、その映画になり得ない展開をリドニーは卒なく纏めている。中盤の明らかな停滞は少し気になったものの、ロケットが壊れようが、何日も不眠不休で作業しようが、1人の人間の命を見殺しにしないという映画の倫理感や方向性は決して間違っていない。

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