【第351回】『フレンチアルプスで起きたこと』(リューベン・オストルンド/2014)
近年の映画における男根(父性)の欠落は至る所に散見され、昨今ますます男性の価値が下がっていると言わざるを得ない。それは何も日本やアメリカだけに留まらず、ヨーロッパでも同様であることを今作はハネケ作品のような陰湿な嘲笑をもって表現する。仕事人間の夫が家族サービスをしようと、高級リゾート地に妻と2人の子どもを連れてくるところから映画は始まる。彼は普段の家族の功を労おうと自分の得意なスキーに誘うのだが、レストランのテラスの一番奥で食事をしていた時、もの凄い破裂音と共に、雪崩が家族の食事をするテーブルに襲いかかる。ここで父親として取るべき行動は一つしかない。雪崩が向かってくる方向でご飯を食べている娘と息子の手を引っ張り、自分の身を呈して家族を守ることである。だが咄嗟の判断で父親は自分だけがテラス席からレストラン内部へと逃げるという失態を犯す。そのことが父性の欠如として表面化するのである。その後夫は何事も無かったかのようにテラスのテーブルに戻るが、妻はその行動や態度が許せない。ヨーロッパにおける『FORCE MAJEURE』という原題は「不可抗力」を意味する。人間の力ではどうにも逆らいきれない天災や通常要求されるだろう事態を予測してもなお、防ぐことが出来ない損害を指す言葉だが、今作の一組に入った亀裂は、夫婦にとって避けられない傷となり、この家族の行く末にべったりと嫌らしくこびりつくこととなる。
夫が妻から向けられた軽蔑の目に怯え、言葉を失っていく様子の描写が実に周到で嫌らしい。当初は川の字に眠る4人の平穏を描いたり、夫婦2人が電動歯ブラシを用いて、同じ空間で歯ブラシをする様子が牧歌的に描かれていたが、突然妻が浮気を見つけ出した時のように豹変する瞬間には、男たちは確実に肝を冷やすに違いない。夫婦の口論において、論理的な夫と感情的な妻の構図は至る所に当て嵌まるはずだが、そこに妻が奇襲を仕掛ける瞬間を唐突に用意しているとしたら、世の夫たちはどんな反応を示すだろうか?そもそも去勢された姿をまざまざと見せつけておきながら、平謝りや論理的な説得の優位性はいささか心許ない。彼は熟慮の結果、貝になり、ただ嵐が過ぎ去るのを待つばかりなのである。だが感情の相違という夫の言葉に妻の逆上スイッチが入る。それを妻は第三者立会いの元、同調圧力に屈した風俗嬢とその相手を自らの話術に引きずり込みながら、とうとうと告げられる議論には終わりがない。まさに公開処刑のような男根の切断の場面に立会いながら、男はその光景にただひたすら黙って耐えるのみである。
翌日、ブーメランのように妻に感情を返すことなく、夫が出来ることのバリエーションはそうない。雪山で羽目をはずす手段はそう簡単には用意されていないが、オストルンドは突如夫へのやけくそなボーナスとして、行きずりの女性との触れ合いやナイトクラブでのばか騒ぎを用意する。しかしその狂乱に参加したところで、家族の不和の根本的な解決には至らない。部屋の前に蹲る彼を前にして、妻から出る「嘘泣きでしょ?」という痛烈な言葉には流石に絶句したが 笑、そのくらいの修羅場を覆せなければ男が廃る。彼は最終日に無謀にも、視界が不明瞭な難解コースに足を踏み入れ、父性の回復を試みるのである。その結果はともかくとしても、これまでの展開を踏まえた上でのラストの妻の早々の離脱には開いた口が塞がらなかった。そもそもこの夫婦には過去にリゾート地ではなく、日常の生活においては不和はなかったのだろうか?そう疑問を呈してしまうほど、妻の決断の綻びをオストルンドは声高に伝えることとなる。ラストのしけもくを吸う夫の投げやりな表情に漂う男と女の不条理さは近年の世界映画の中でもあまり例がない。ヴィヴァルディ『四季』の挿入される場面が幾つかあるが、おそらく同国の監督作『みじかくも美しく燃え』へのオマージュに違いないのだろうが、父性を回復してもなお、空白を作るオストルンドの悪趣味じみた演出には肝を冷やした。
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