【第368回】『ハッピーボイス・キラー』(マルジャン・サトラピ/2014)
冒頭、白い煙をゆっくりと上空に吐き出すそれなりに大きなプレハブの建屋が姿を現す。一見してどぎついピンク色の作業着(つなぎ)が目立つ工場内部では、作業員たちが真っ白なバスタブを製造、納品している。ここは片田舎にある典型的なマス・プロダクションの工場であり、主人公であるジェリー・ヒックファン(ライアン・レイノルズ)は一見して感じの良さそうな好青年に見える。白い歯、明るい笑顔、機敏な動きの彼はアメリカの片田舎にはどこにでもいそうなごく当たり前の30代であり、異性との出会いを求めている。実際に映画はどこの州の物語であるかを明記しない。ゆえに我々観客も、田舎のごく普通の企業の工場内部でのオフィス・ラブを主軸とした物語なんだと想像して観たに過ぎない。いかにも社長風なハゲ頭で小太りな男がある日ジェリーに親しげに話しかける。会社の懇親会の相談事でただ働きだが、別の課に属する美人の女性フィオナ(ジェマ・アータートン)も同席すると社長はジェリーを誘惑する。それに満更でもない様子のジェリーは二つ返事で幹事役を引き受ける。こうしてジェリーと憧れのフィオナとの出会いのきっかけは突然生まれる。会議の席上でコンガを踊ろうと提案するヒロインに対し、席上のその他大勢は素っ気ない態度を取るが、ただ一人ジェリーだけは笑顔でその提案に賛成する。あからさまに下心がありに見えるが、自分の提案を承認してくれたジェリーに対して悪い気はしない。こうしてジェリーとフィオナは少しずつ距離を縮めていく。21世紀のアメリカのTVドラマのようなベタベタな定石通りの展開だが、冷めたピザに対して異常な執着を見せる主人公の旺盛な食欲だけが気がかりに思えてならない。
一見したところ好青年に見えた主人公は、精神科医ウォーレン博士(ジャッキー・ウィーヴァー)のカウンセリングを受けており、パートナー探しへの少々の欠陥がここで明かされることになる。奥手そうなこの男は何かしらの疾患を抱えているのだとわかるが、私はこの場面をさして重要ではないと考えてスルーしてしまった。フィオナを中華料理屋に誘ったジェリーは、午後7時のブルース・リー・オン・ステージを見ながら彼女の到着を待つが、幾ら待てども彼女は現れない。ジェリーの誘いを嫌がるフィオナは同僚とのカラオケ・パーティの方を優先し、ジェリーとのデートを華麗にすっぽかす。この時点ではお嬢様気取りのじゃじゃ馬姫と、うぶな主人公の前途多難な恋模様を想像するが、次の瞬間あっさりと裏切られる。今作はこのなかなか捕まえきれない脚本の揺れとあっと驚くような転調こそを楽しむ映画だろう。女性上位時代を映し出すように見えた普通の恋愛劇の主従関係があっという間に入れ替わる真に斬新な展開にはびっくりしたし、主人公の変貌ぶりにも驚いた。このジェリーという男の抱える闇とはいったい何なのか?田舎の潰れたボウリング場跡地を借りて暮らす男、その孤独な主人公の恋を手助けするかのように、彼の話し相手になっているかに見えた犬や猫が、主人公の幻聴であるとわかってからの息を呑むような展開が見事である。だが今作においては、良くも悪くも彼の行動を推理するような刑事や警察官が一向に出て来ることはない。一貫して狂気にまみれたジェリーという男の焦燥感や事件の動機となった精神疾患を伝えるのみであり、主人公の孤独な一人称による制御不能な殺戮劇がこうして幕を開けるのである。
刑事が徐々に闇を暴いていくのではなく、主人公が勝手に自爆して自分語りを始めてしまう中盤からクライマックスまでの悲哀はやや難があると感じたものの、マルジャン・サトラピは最低限のサスペンスの持続は維持しようと試みる。最初は手が届きそうにないフィオナを選んだジェリーが、運命論に導かれたかのようにそのすぐ隣にいたリサ(アナ・ケンドリック)との愛に目覚め、彼女に心からの満足感を得る中盤の安らぎは主人公にとって束の間の幸福に過ぎない。本当に愛したただ一人の女性は、女性らしいサプライズ好きな性格から善かれと思い、プレゼントを持って突然の訪問をするが、その代償はあまりにも重いものとなる。ジェリーが天窓から部屋に入り込んだリサを見る眼差しの寂しさは、そう簡単にホラー映画では描写出来ないレベルの悲哀を我々観客に伝えるものの、その後の彼の凶行の理由はさっぱりわからない。ただ家に帰ることを懇願する彼女を殺める男の制御不能になった病理は凡人には到底理解出来るはずなどない。ましてや彼のその病理の遠因が第二次世界大戦帰りの父親の束縛から逃れようとした母親の病理の伝染だとしたら、今生の科学ではもはや解明することは不可能であろう。あの日あの時と同じようにパトカーのサイレンが徐々に近付いてくるシークエンスはなかなか秀逸だが、だとすればエンドロールのおとぼけた陽気なダンスはあれで良かったのか?あの陽気なエンドロールは丸々カットで良いが、脚本の面白さは特筆に価する。
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