【第661回】『マダム・フローレンス! 夢見るふたり』(スティーヴン・フリアーズ/2016)

 1944年アメリカ・ニューヨーク、様々な音楽家を支援するために設立されたヴェルディ・クラブの夜は静かに幕を開ける。黒のタキシード姿のシンクレア・ベイフィールド(ヒュー・グラント)が独特の声色と俳優仕込みの名司会ぶりで客席を盛り上げると、ワイン色の緞帳がゆっくりと上がり、緑溢れる庭先の舞台装置と伴奏者が出て来る。今日の主人公であり、湯水のごとく親の財産を使い、このクラブを創設したフローレンス・フォスター・ジェンキンス(メリル・ストリープ)は天井裏でワイヤーに吊るされ、その出番を待っている。1940年代のニューヨークの社交界と貴族たちの軽やかな笑い声。やがて裏方スタッフが2人がかりでフローレンスを絶妙な位置に釣り上げ、静止する。天使となった彼女はピアノを弾く作曲家フォスターに天啓を与える。クライマックスに披露された彼女の歌声は、想像を絶するような音痴だった。しかし貴族の観客たちはフローレンスに惜しみない拍手を送り続ける。心地良い喝采の余韻に導かれ、宮殿のような屋敷に戻るマダムの姿。キング・サイズのベッドに入り、シンクレアに歌をねだる様子は少女のように見える。シンクレアは彼女のリクエストに、情熱的な言葉で応える。シンクレアと家政婦に見守られ、フローレンスが眠りについたのを確認してから、シンクレアは静かに屋敷を出る。護衛にタクシーを頼み、乗り込んだ男の長い長い1日が今ようやく終わろうとしている。邸宅に戻ると、シンクレアに静かに近づく1人の女性キャサリン(レベッカ・ファーガソン)が最愛の人を迎え入れる。

 フランスで特大ヒットを記録した『偉大なるマルグリット』に続き、フローレンス・フォスター・ジェンキンスの二度目の映画化である。『偉大なるマルグリット』ではアメリカ人だった彼女がフランス人に翻案され、アゼル・クラン(クリスタ・テレ)とジョルジュ・デュモン(アンドレ・マルコン)夫婦の偽りの愛を見つめるデュモン家の執事であるマデルボス(ドゥニ・ムプンガ)が重要な役目を担っていた。まさに「家政夫は見た」を地で行くようないかにもフランス映画らしいブラック・ユーモアを讃えたシニカルなコメディとして脚色されていたが、今作では家政夫ではなく家政婦のポジションが後退し、代わりにフローレンスの夫であるシンクレア・ベイフィールド(ヒュー・グラント)との濃厚な愛の生活が描かれる。その意味でフローレンスの伝記により近いのは今作の方であり、スティーブン・フリアーズも今作の主人公に偽名を使わず、直球でフローレンス・フォスター・ジェンキンスとしている。導入部分で示されたように、フローレンスとシンクレアは仮面夫婦であり、シンクレアには意中の恋人レベッカが別にいる。妻はそんな夫の姿を社交界では公然の秘密とすることで許していたようだが、内心、心穏やかではない彼女の様子が胸を打つ。それどころか、彼女は生を終える最後の瞬間ギリギリまで、自らが音痴であるということを周囲の人々に隠し通されていた。シンクレアはおろか、彼女の伴奏者として生涯を支えたピアニストであるコズメ・マクムーン(サイモン・ヘルバーグ)もカルロ・エドワーズ(デヴィッド・ヘイグ)も彼女の歌声を秘密とし、辛辣なコメントを書きそうなクリティックを中に入れないほど、フローレンスの本当の歌声は周囲の人物にとって隠し通したい公然の事実として脚色される。

 『偉大なるマルグリット』では、自分の友人と不倫をする夫の姿に薄々気付いていながら、彼をもう一度自分に振り向かせたい悲しい女の承認欲求が彼女の歌の原動力だったが、今作では大病を患いながらも、オペラ歌手を夢見るフローレンスの果てなき夢と、売れない俳優としてのシンクレアの苦悩を同時に描き、男と女の表層だけではない表現者としての感情と演者としての共感を浮き彫りにする。売れない俳優としてスタートした彼のキャリアはヨーロッパ中を転々とし、第二次世界大戦やナチス・ドイツのホロコーストの影響下で、アメリカ(新大陸)に活路を見出すが、シンクレアは俳優としては相変わらず鳴かず飛ばずであり、今後もブレイクの兆しは見えない。彼女がその柔らかいピアノのタッチとサン=サーンスの中庸なメロディに心奪われたコズメ・マクムーンも技量や野心はあったが、突き抜ける才能には恵まれず、カーネギー・ホールの舞台に立ったのはフローレンスの伴奏者としてが最初で最後であった。アメリカン・ショービズの世界のほろ苦さを味わった2人が、テクニックには集約されないフローレンスの不思議な魅力に導かれ、彼女の裏方として自分たちの役目を必死で務めようとする。『マンマ・ミーア』や『イントゥ・ザ・ウッズ』で歌唱力は織り込み済みのメリル・ストリープの存在感も格別だが、それ以上にシンクレアを演じたヒュー・グラントの情けない存在感が出色の出来である。『ラブソングができるまで』の撮影中にパニック障害を発症し、俳優業を大幅にセーブしているヒュー様が『ブリジット・ジョーンズの日記』の最新作を蹴ってまで出演を懇願した作品の、大病を患うヒロインを優しく見守る役柄は、ヒュー・グラントのキャリア史上最高の演技で観る者を魅了する。ピアノを完璧にマスターしたサイモン・ヘルバーグも素晴らしさもあるが、90年代ラブコメの王子だったヒュー・グラントの憂いを帯びた眼差し。クライマックスのクレーン・カメラのゆっくりとした動きには溢れる涙が抑えられなかった。

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