【第225回】『スウィート・ホーム』(黒沢清/1989)

 黒沢清と伊丹十三の蜜月関係は、黒沢が処女作『神田川淫乱戦争』を撮った頃に遡る。黒沢は立教大学在学中、蓮實重彦を恩師と仰ぎ、時には蓮實に自分の撮る8mmに出演してもらうなど良好な関係を築いていた。その頃伊丹も何かのきっかけで蓮實重彦の文章を読み、いたく感激し、映画評論の新たな地平を作る批評家としてその発言を崇拝していた。当時どこかで蓮實重彦の映画講義がある際に、伊丹が自転車で毎回かけつけたことはあまりにも有名な話である。そして伊丹は黒沢の『神田川淫乱戦争』の蓮實重彦による惜しみない賛辞を読み、黒沢清という若い才能を見つけるのだった。

それがきっかけとなり、続く『女子大生 恥ずかしゼミナール』では、平山教授役をダメもとで伊丹にオファーすると快く了承された。今作は新人の洞口依子が主人公だったが、教授役の伊丹も主役に相応しい活躍ぶりだった。実際撮影現場では、黒沢は伊丹にカメラを向ける時、終始緊張していたという。学生映画上がりの自分の映画に、それも成人指定のポルノ映画に快く出演してくれた伊丹十三の男気に感謝し、映画作りの上での2人の更なる友好は順調に築かれていくはずだった。

今作も最初はディレクターズ・カンパニーの出資で想定された物語だった。当初は『スウィート・ホーム』ではなく、『心霊』というタイトルで、妻と娘の不和を案じた父親が、親子旅行で田舎の古い別荘を訪ね、そこで幽霊を見るという物語だったという。そこで母親は恐怖のあまり自殺し、もともといた幽霊と自殺した母親の幽霊が同時に襲ってくるという斬新な設定だった。山城新伍が演じたエミの父役は何と藤田敏八で、母親役は木内みどりで十中八九決まっていたという。しかしながら資金繰りに苦しんでいたディレクターズ・カンパニー末期の環境が元で、制作は頓挫する。意気消沈した黒沢清はそこで伊丹十三に出資を求める。それが全ての間違いの始まりだった。

結果的に『お葬式』の大ヒットにより、ディレクターズ・カンパニーよりもお金に余裕のある伊丹プロダクションの単独出資という形になり、当初予定していた配役や、カメラマン瓜生敏彦とタッグを組もうとした黒沢の思惑は軌道修正を強いられる。山城新伍と宮本信子を主軸に据え、裏方スタッフも伊丹組の常連スタッフで脇を固められ、ようやくクランクインする運びとなる。

ある日、故・間宮画伯の古びた屋敷をTVの取材チームが訪れた。スタッフはディレクターの早川秋子(宮本信子)、プロデューサーの星野和夫(山城新伍)、カメラマンの田口亮(古舘伊知郎)、レポーターのアスカ(黒田福美)、それに夏休み中の和夫の娘・エミ(NOKKO)も同行した。間宮が死んで30年だが、そこには幻の壁画が残されているのだった。エミは母を亡くしてから秋子を慕っており、和夫と秋子の間にもほのかに恋愛感情があった。しかし、屋敷で取材を始めたとたんアスカが何者かに憑かれて、土葬された間宮夫人の子の墓を掘り出したり奇妙な行動を取る。

今作も前作『奴らは今夜もやってきた』同様に、舞台は田舎の森の中のさびれた屋敷である。例のごとくもやのかかった森を抜けると、趣のある屋敷に出くわす。鍵穴は錆び付き、天井は今にも崩れかからんとするくらい傷んでいる。この屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間から、不穏な空気が漂い始める。この屋敷への訪問以前に、黒沢清は強い風とか無人の林の中のもやとか、様々な神秘的体験を潜ませている。ホラー映画において肝になるのは光と影の描写である。暗闇の中で光るランプや非常灯の明かりが今作では欠かせない光源となる。しかもそれが無残にも一つずつ破壊されていくとしたらどうだろう?思えば前作『ドレミファ娘の血は騒ぐ』においても、クライマックスの場面には洞口の女性器から光が放たれ、麻生うさぎの部屋に差し込むという真にバカバカしいショットのつなぎがあった。あの場面で光は拡散し、別の場所に飛び火していたが、今作ではそれでなくても薄暗い屋敷の電気が一つ一つ破壊されていく。この光の消滅が今作の旨味となるのである。

黒沢は前作『奴らは今夜もやってきた』で最新のアメリカ映画への回答を自分なりに出そうとしたと後に語るが、客観的に見て黒沢映画が最もアメリカ映画に接近したのは、今作と『地獄の警備員』だろう。アクションの場面と何ら関係のないように思えるベタ敷きのBGMの使用は、90年代アメリカ映画の雛形となるし、クローネンバーグの『スキャナーズ』で脳味噌を破壊する恐怖の造形を作り上げた職人ディック・スミスに頼み込み、本国産に勝るとも劣らない恐ろしいVFXを作り上げている。アメリカ製ホラーにおいては、最初に殺されるのは聡明な人物ではなく、決まって馬鹿な男性だと相場は決まっているが、古舘伊知郎はこのホラー映画の定石を踏襲する。彼は不穏な気配に怯えることもなく、あっという間に無慈悲な殺戮の犠牲になる。今のジャーナリスト然とした姿勢から見れば明らかに黒歴史であるが、衣装も含めこれはこれで面白い。ここでは敵に触れられた途端、数千度の高熱によりまるで原子爆弾のように皮膚がただれていくのである。当時、家族映画として今作を観に行った子供たちは、このディック・スミスのグロテスクなVFXがトラウマとなっているに違いない。

伊丹十三の役柄が、屋敷から少し離れたところにあるガソリンスタンドの店長というのも、定石通りで非常にわかりやすい。何故ガソリンスタンドの店員なのに、出会いの場面で車を整備していたのかは謎だが 笑、この村の古いしきたりや伝統を無視した勝手な行動が、やがて幽霊の逆鱗に触れるという道筋もわかりやすい。そこに妻と別れた独身男の山城新伍とその一人娘であるNOKKO、山城新伍と互いに相思相愛の宮本信子の関係性を前半部分丁寧に描いたことで、ただのB級ホラーにはない味わいも感じる。

しかしながらこの映画が決定的に弱いのはショットであろう。伊丹プロ主導の映画制作が、結果的に黒沢清の作家性の輪郭をぼやかしてしまったのは否めない。ここで黒沢は初めて、自分の思惑ありきでは映画を作れない現場を実感する。このことは我々シネフィルの間では「ウォルター・ヒル」問題として語り継がれている。要は被写体に対してカメラが寄るか引くかの判断なのだが、わかりやすく言うと、ロング・ショットに固執する黒沢清の判断と、クローズ・アップを随所に入れたがる伊丹十三の判断の違いだと言えばわかりやすい。

本来ならば、黒沢にとってこの現場は、長年憧れていた神代辰巳の下で、多くの作品を量産した名カメラマン前田米造とのコンビネーションであり、夢のような現場であったはずである。しかし自らも重要な役柄で出演し、常に撮影の現場で黒沢と顔を付き合わせることになる伊丹十三は、ことごとくクローズ・アップのショットを黒沢に要求した。その結果、黒沢映画の旨味であった大胆なロング・ショットはほとんど見られず、活劇としてのカメラの動きの面白さもすっかりなりを潜めてしまったのである。それでも前田米造カメラマンは出来るだけ黒沢の意見を尊重し、「クローズアップだけでなく、ロング・ショットも撮っておきましょうか?」と言ってくれたらしいが、結局編集権は伊丹プロにあるため、どうにもならなかった。本来ならば前田米造カメラマンもロング・ショットの達人である。『女地獄 森は濡れた』や『赫い髪の女』を撮ったカメラマンがクローズアップ主体の映画など撮るはずがないのだが、結果として伊丹プロに就いた時には、伊丹の意思を尊重し、必然的にクローズ・アップが増えた。

やはり映画の最終決定権が監督にない場合、映画は必然的に混迷を極めることが多い。かつてジョン・カーペンターやジョン・カサヴェテスが苦い思い出として挙げていた最終決定権の問題が黒沢には重くのしかかることになる。この数年後、今作の上映権やビデオ化権を巡って、伊丹と黒沢は法廷闘争を繰り広げる。結果、黒沢は全面敗訴し、いまだにDVDやBlu-Rayでのリリースがない。結局、伊丹とは1度も和解することがないまま、彼の自死によりこの問題はうやむやになる。しかしながら今作で登場した間宮の苗字は、この後も度々黒沢映画には登場するのである。

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