【第610回】『愛の地獄』(クロード・シャブロル/1994)

 フランス南部の海岸沿い、風光明媚で美しい手付かずの自然が残る風景、歩道に据えられたカメラの奥から女の子2人が優雅に自転車を漕ぐ様子が映り、クレーン撮影したカメラがゆっくりと右側に傾いていくと、たった今入り口に看板を設置しようとしている。そこに書かれた「湖畔のホテル」の文字。2人の女は目を輝かせながら、まだ工事中の内部に入ると、子供部屋を2部屋作ろうと思うんだとホテルの若きオーナーであるポール(フランソワ・クリュゼ)は誇らし気に話す。「どこにこんなお金があったの?」と聞くと、15年間働いた貯金とお袋の遺産がたんまりあるが、あとは国に借金をしてこのホテルを作ったんだと笑顔で話す。友人は気まずい空気を察したのか、自ら進んで外に出る。オーナーと少女の2人っきりの空間、お下げ髪の少女ネリー(エマニュエル・ベアール)との高低差のある視線の交差のカットバック。友人は廊下で工事スタッフにライターの火を借りてほくそ笑む。訪れる結婚式場の貸切バスから、意気揚々と飛び出す新郎新婦の姿。ポールは美しいネリーを妻とし、二人には愛らしい一人息子まで生まれている。飛行機が飛び交うのが難点だが、オーシャン・ビューのホテルは絶好の立地条件と主人夫婦の家庭的なもてなしが受け大繁盛。毎年6月から10月には予約も取れないほどの人気店になっていた。

敏腕オーナーと美人女将、それに可愛い一人息子という絵に描いたような幸せな家族の光景。ネリーがベビーカーを引くだけでビーチサイドから男たちの視線が集まり、女はそのスケべな眼差しにも微笑み返す。接客業としての範疇には入るが、明らかに小悪魔的な妻を、当時31歳で美貌の絶頂にあったエマニュエル・ベアールが可憐に演じる。夫のポールも愛想が良く、ホテルには一見さん以上に常連客(リピーター)が絶えない。飛行機の男が気になって眠れなかったという老夫婦に対し、ずっと住んでしまえば気にならなくなりますよと笑顔で返す夫だったが、彼自身も実は慢性的な不眠症に悩んでいる。ダブルベッドに入る夫婦の構図、左側で本を読んでいるネリーに対し、右側に寝たポールは優しく抱きかかえるように求愛をする。電気を消して、愛の営みを始めようとした瞬間、隣の部屋から漏れ聞こえる長男の泣き声。まるでタイミングを図ったかのような長男の夜泣きにネリーの笑い声が消えない。息子をあやしに行った妻を尻目に、夫は使われていない真っ暗な部屋で鏡に向かい、「子供が泣くので眠れない」と不安気に呟く。妻は夫に迫り来る病状など知る由もなく、夫を誘惑し夜の営みが始まる。夫は繁盛ホテルの経営のために、昼夜問わず汗水垂らしている。女将であるネリーに不満などないが、ただ一つ心に引っ掛かることがある。それは美しい妻の誘惑と浮気である。ネリーの大らかな愛らしさが仇になり、ポールには彼女が親しげに話す相手がことごとく恋敵のように見え始める。

ファム・ファタールな妻を娶った夫の疑念と言えば、同じシャブロルの『不貞の女』を真っ先に思い出す。妻を愛せば愛すほど、一番身近にいるはずの妻が遠くにいるように思える。一種のパラノイア的な妄執だが、夫はネリーに寄り付く男を一人ずつ払いのけようとする。特に目障りなのは近所に住む青年マルティノ(マルク・ラヴォワース)だが、そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ネリーはマルティノと二人きりで部屋を暗くして、ロビーの脇の部屋でスライド写真を見ていた。露悪的なシャブロルは、真っ暗な部屋から漏れる一筋の光を、まるでポールの気持ちを逆撫でするかのように効果的に点滅させる。彼は疑念が募り、『不貞の女』同様に街に母に会いに行く妻を尾行する。ネリーは夫の嫉妬を受け止め、満更でもない様子で夫の胸の中に飛び込む。年下の自由気ままなファム・ファタールを妻にしたことで、やり手オーナーの心労は絶えない。今作は『恐怖の報酬』や『悪魔のような女』で知られる50年代フランスを代表するサスペンス映画作家であるアンリ・ジョルジュ・クルーゾーの64年に中途で放棄した脚本を基に、シャブロルが30年ぶりに映画化した作品だが、もともとシャブロルの着想だったかのようにゆっくりとした夫婦の破滅を描く。シャブロルはクルーゾーの書いた科白部分をほぼアレンジせず、そのまま演じさせたが、トタンの上をローラー・スケートで走る少女、厚かましくネリーの痴態にカメラを回し続けるプライベート8mm映像家、8mmフィルムの上映会で半狂乱に陥るポールの光景は露悪的なシャブロルの映像魔術に他ならない。現代で言えば統合失調症にあたる病を抱えながら、密室劇に巻き起こる陰惨極まりないラストが実にシャブロルらしい。

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