【第530回】『ロスト・バケーション』(ジャウマ・コレット=セラ/2016)

 エメラルド色のメキシコの綺麗な海。観光客が誰もいない白い海岸線で、少年はドリブルを楽しむ。波を横目にボールに目を奪われる少年は、白い砂浜の上に見たことのない黒い物体を見つける。少年はしばらく物体を凝視した後、おもむろに持ち上げる。黒いヘルメットの横に取り付けられたGO PROの小型カメラ。再生ボタンを押すと、そこには2人のサーファーの男たちがサメに襲われる瞬間が克明に記録されていた。少年は慌てて一目散に走り出す。一方その頃、メキシコのビーチへ向かう車中、ナンシー(ブレイク・ライヴリー)はスマフォの画面に夢中になっていた。どうやらヒッチハイクで近くの海まで送迎してくれているらしいガイド役のカルロス(オスカー・ジャネーダ)は、そんなものを見ずに、もっと外の美しい風景を見ろよと促す。友人とのLINEのやりとり。前夜のテキーラ・ショットで羽目を外し過ぎた友人を部屋に置いて、ナンシーはたった1人で秘密のサーフ・スポットに向かう。そこは地元の人しか知らない、ガイドブックに載らない楽園が眠る。エメラルド色に輝く美しい海、どこまでも続くような水平線、サーファーが2人しかいない穴場にナンシーは足を踏み入れる。この海は、今は亡き母親が教えてくれた海だった。テキサスに生まれ、医大生になったナンシーは母親の死を前に、将来について深く思い悩んでいた。ナンシーは母親が教えてくれた海で、永遠に消えない心の傷を浄化しようとしている。だがとんでもない悲劇がナンシーの身に降りかかる。

「楽しい休暇になるはずだった―岸はすぐそこ。しかし辿り着くことはできない。」という映画のキャッチコピーだが、肝心の腹を空かせたホオジロザメはなかなか現れない。生まれ育ったテキサスから、遠く離れたメキシコの地でサーフィンすることの意味を導入部分に巧みに織り交ぜながら、ヒロインはまるで儀式のように海へと出て行く。ナンシーは『ロスト・バケーション』以前に「ロスト・マザー」な精神状態から一向に回復し切れていない。行きの車の中で風景そっちのけで何度も見ていたのは、同じメキシコの海で撮られた70年代の母親の若き日の写真である。おそらく現在のナンシーと同い年くらいだろうか?それをわざわざスマフォで見れるようにスキャンし、何度も見返しながら、彼女は自分が生まれる前の母親の記憶を辿ろうとする。テキサスの実家とメキシコの砂浜は一瞬電波で繋がるが、妹から父親に代わった瞬間、ナンシーは電源を切る。サメが襲ってくるパニック映画としては予告編にもあったように、このジャンルの金字塔であるスティーブン・スピルバーグの『ジョーズ』との比較は免れない。夜通し行われたヒッピーたちの集いの後、青年に誘惑された女は下着を取り外し、あられもない姿で早朝の海に飛び込む。そこで悲劇は起こる。つまり開巻早々にして、恐怖のホオジロザメは姿を現わす。今作では亡き母親との最後の儀式になるはずのサーフィンには、既に2人の先客がいる。監督の母国語であるスペイン語と英語のちゃんぽんでの表層だけのコミュニケーションが始まる。サーフィンのテクニックを披露するエクストリーム・スポーツのスタイリッシュな映像は問答無用に素晴らしいが、それは表層であって深層ではない。

監督であるジャウマ・コレット=セラは一貫して限定された空間・時間によって物語を紡いできた。処女作『蝋人形の館』ではサッカー観戦に向う途中、車の故障により地図のない街へと迷い込む。その限定された街でふりかかる恐怖を描いた。『エスター』においては、3人目の子供を流産した夫婦が養女をもらった我が家という平和な空間で事件は起きた。リーアム・ニーソンを苦境に追い込む3部作でも、『アンノウン』では記憶喪失、『フライト・ゲーム』では上空数万mの身動きの取れない航空機内、『ラン・オールナイト』では朝になるまでという緊迫した状況下に身を置くことで、優れたサスペンスを生み出してきた。今作では岸までの距離は約200m、干潮の岩場という限定された空間、満ち潮で岩場が海底に沈むまであと100分というリミットを設けることで、真にミニマルなサスペンスを醸成する。砂浜で妹と電話した際は、もはや医学の道を諦めたかに見えたヒロインだが、天国の母親は断じてそれを許さない。極限の状態に置かれる中で、次々に出て来る医学的アイデアと数々の行動。『エスター』において、あどけない少女の姿をした女が最後に正体を現したように、『蝋人形の館』において平和に見えた蝋人形の館が惨劇の舞台に姿を変えたように、『ラン・オールナイト』において、長らく絶縁していたマフィアの父親が本当の父親の顔を最後に見せたように、天国の母親はこの海でヒロインの鏡像関係となる2つの生物に成り変わる。一見B級プログラム・ピクチュアという「表層」を装いながら、家族の崩壊と再生の物語を丁寧な筆致で紡いだジャウマ・コレット=セラの「深層世界」は心底見事というより他ない。脱臼したカモメもメスのホオジロザメもナンシーも、一貫して名前のない海を見ていたのである。

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