【第372回】『トラベラー』(アッバス・キアロスタミ/1974)

 アッバス・キアロスタミの記念すべき長編デビュー作。『パンと裏通り』ともう1本の短編を撮ったものの、自分はまだ監督になる器ではないと長編デビューを渋っていたキアロスタミは、幾つかの短編をつなぎ合わせることで長編を作ることを思いつき今作を着想した。10歳の小学生のガッセム(ハッサン・ダラビ)は学校では不良小学生として知られ、街角でのサッカーだけが唯一の生き甲斐である。彼はイランの首都で行われるサッカーの試合が見たい一心で、親の金をくすね、友人たちを騙し、おじいさんの大切な宝物を質に入れてまで遠くテヘラン行きのバス代とチケット代を用意しようとと様々な策略を練る。このサッカーを見ようとする主人公の冒険譚は、その後キアロスタミの弟子であるジャファル・パナヒの『オフサイド・ガールズ』の源流になっただろうし、今作そのものはトリュフォーの長編デビュー作である『大人は判ってくれない』のイラン版の趣がある。主人公が両親に呆れられるほどの不良少年であるという設定、学校の授業に遅刻し、担任の先生に嘘の言い訳をし、まったく悪びれる素振りを見せない様子は、若き日のドワネル少年にそっくりである。

処女短編『パンと裏通り』でも後の『そして人生はつづく』でも明らかなように、今作はサッカーに熱狂的なイラン国民の文化的素養を下敷きにしている。手作りのゴールに手作りのボール、路上でサッカーをして遊ぶ少年たちの姿はドキュメンタリー的な魅力に溢れ、実に逞しい。学校の勉強など気にせず、サッカーにだけしか興味を示さない少年の姿は、『大人は判ってくれない』で映画にしか興味を示さないドワネルとその悪友の姿に呼応する。イランの子供達にとっては、ストリートでのサッカーだけが生きがいであり、生まれて初めてサッカー観戦をしたいという衝動に駆られた主人公は、ずる賢い一夏の体験を経て、大人への階段をゆっくりと昇るのである。とはいえ彼の方法論は決して褒められたものではない。今作には後のイラン映画ブームの折に見られたような、家族の手伝いに一生懸命で妹思いの少年の姿などどこにもない。ドワネル以上に不良なガッセム少年の悪さの数々は、ここ日本でも類を見ないだろう。

中盤まではどこを切り取ってもまさに『大人は判ってくれない』だが、親からくすねたお金でもまだまだ足りないと知ったガッセム少年が、思いつきで街路に写真館を作る発想を思いつくところから、キアロスタミにしか出来ないマジカルな演出が続く。突然飛躍する物語、躍動するショットがヌーヴェルヴァーグのような実に印象深い。本当は中にフィルムなどないが、ガッセム少年は次々に市井の人々のポートレイトを撮ったように見せかける。そんなインチキとは知らずに、思い出の写真を残そうと集まった1人1人のよそゆきの表情が実に素晴らしい。それは明らかにペテンの作業でしかないのだが、この映画の中には確かに彼らの生き生きとした笑顔が写っているのである。そこから馬車に飛び乗った少年の黒い影が躍動する姿は、まさにヌーヴェルヴァーグそのものと言った軽快さに満ちている。主人公の行いの倫理的評価はともかくとしても、彼は生まれて初めて自分で稼いだお金で、テヘランへと旅立つ。ここから物語は加速度的に速度を速めていく。

この映画で主人公を演じた非職業俳優の少年だったハッサン・ダラビは実際に熱狂的なサッカー信者であった。キアロスタミは彼にテヘランのスタジアムで試合のあった日に、大人たちの列に並ばせて、自力でチケットを取りなさいとミッションを告げて撮影したものである。列に並ぶガッセム少年のワクワク感と焦りのような複雑な感情を手持ちカメラで据えたチケット購入場場面の手早いクロス・カッティングが少年の心理的躍動を伝えるかのようである。喧騒の中で、後ろから押されクレームを入れる瞬間は意図していないものであり、そのドキュメンタリー的緊迫感が物語にリアリティをもたらしている。ここでもダフ屋の男にだけは状況を与えつつも、ハッサン・ダラビにはチケットが買えなかった飢餓感を与えることで、彼の自然な演技を引き出そうとしている。クライマックスの様々な迂回を経ての失敗の場面は観客に賛否両論の反応をもたらした。遠く南部の田舎町からテヘランまで出て来た10歳の少年にとって今回の経験はあまりにも苦いものになったが、結果はどうあれ、会場で眺めのいい場所に座れたことが何よりもガッセム少年にとって成長となることを、キアロスタミは実際に肌で感じていたに違いない。途中まではただのトリュフォー『大人は判ってくれない』の亜流でしかないと見せかけておいて、中盤からまったく違った展開を見せる恐るべき長編デビュー作である。

#アッバスキアロスタミ #ハッサンダラビ #トラベラー

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