【第382回】『殺しが静かにやって来る』(セルジオ・コルブッチ/1968)

 一面雪に覆われた荒野の向こうから、男が馬に乗ってやって来る。雪景色の中には他の足跡など一切ない。寒々とした空をカラスの集団がけたたましい鳴き声を響かせながら彼方へ飛んでいく。男はその尋常ならざる光景を見て、ゆっくりと馬の手綱を止めて物音に耳を傾ける。案の定、岩場の向こうに隠れていた無法者の集団が全員で発砲してくるが、早撃ちな男は逆に無法者たちを皆殺しにしていく。その殺しの風景に恐れ慄いた男が銃を捨て、両手を挙げて物乞いするようにそそくさと出て来るが、丸腰の男の掌を撃ち抜く。彼は殺し屋であり、まったく金にならない賞金稼ぎの命など狙っても意味がない。だから命は取らずに、一生拳銃を使えない身体にするまでという合理的判断の元、銃を抜く。真っ白な雪とは実に対照的な、漆黒の衣装と雪焼けした表情とのコントラストが、一際印象に残る素晴らしい導入場面である。シルヴァーノ・イッポリッティのカメラも雪山を歩く男のロング・ショットと鮮烈な長回しに始まり、俯瞰ショットを多く含みながら男の孤独な姿を描写している。夏のメキシコ国境付近が主であった西部劇とは対照的な冬の雪山、吐く息の白さ、防寒着に覆われた装い、時代は1898年西武開拓者時代、雪に覆われたユタ州スノーヒル、およそ西部劇の型にはまらない異色の西部劇である。

町に2人の男が流れ着く。1人は主人公でその名の通り一言も言葉を発しないサイレンス(ジャン=ルイ・トランティニャン)であり、もう1人は一匹狼として賞金を独り占めにしている早撃ちガンマンのロコ(クラウス・キンスキー)という獰猛かつ狡猾な男である。彼は無垢の人々をも手にかけ、相手が命乞いしようが容赦しない。投げ縄を首に巻きつけ、馬で引き摺り回すなどそのあまりにも残虐非道な様子は、導入場面で掌は撃つが命だけは助けるサイレンスとは対照的であり、慈悲を知らない。そんな男の悪魔のような瞳に目をつけた男がゆっくりと彼に近づく。町は悪得判事ポリカット(ルイジ・ピスティリ)の手により荒廃しており、住処を奪われた男たちは雪の中に潜むしかない。この町の無法さを示す極め付けのエピソードとして、保安官(フランク・ウォルフ)が雪の中で追い剥ぎに遭う姿が出て来る。彼は周囲を男たちに取り囲まれ、命だけは助けてくれと物乞いするが、男たちのお目当ては保安官ではなく彼の乗っていた馬である。馬を殺して肉を食うほど、彼らは貧困と飢餓に苛まれる中、町では一部の無法者が悠々と生活をしており、悪の渦化はポリカットとロコの偶然の出会いから更に大きくなっていく。口のきけないサイレンスに対し、まさに口八丁手八丁で残虐非道の限りを尽くすギョロ目のロコとポリカットの対比も物語を盛り上げている。これはヌーヴェルヴァーグの使徒とニュー・ジャーマン・シネマの異端児との実に魅力的な闘いでもあるのだ。

サイレンスは何故寡黙なのか?どうしてこの町を訪れたのか?そういう一切の主人公の背景を明らかにしないまま、やがて狡猾なロコの手により、隣町に潜む男たちが次々に撃ち殺されていく。その中には雪の中で命乞いをするも一撃で夫を殺された薄幸の未亡人ポーリン(ヴォネッタ・マギー)がいた。髪の毛を後ろで縛り上げた長身で聡明な黒人女性は、強気を挫き、弱気を助けるサイレンスに1000ドルで夫を殺した賞金稼ぎへの復讐を依頼する。こうして初めてサイレンスとロコは宿命の対決へと向かう。雪山の設定の異様さもさることながら、これまでの西部劇に全身を黒ずくめの衣装で覆う肌の黒いヒロインなどいただろうか?女は悪徳判事に住処を売り渡し、依頼代1000ドルを工面しようとするが、悪徳判事は彼女の身体だけが目当てであり、強引に妾にしようとする。その誘惑を拒絶し、女はサイレンスに身を委ねることになる。主人公の肩の傷を癒すために包帯を巻きつけるヒロインに対し、サイレンスはそっと口づけを交わす。濃厚なラブシーンも異色だが、フランス・ヌーヴェルヴァーグの色男たるジャン=ルイ・トランティニャンとブラック・プロイテーションのヒロインであるヴォネッタ・マギーのラブ・シーンの濃密な描写も今作が異色の西部劇と呼ばれる由縁だろう。男のささくれ立った心に一服の清涼材のような未亡人の口づけ。主人公の秘めたる寡黙さの意味が明らかになった時、復讐の銃撃戦が幕を開ける。

クライマックスの壮絶ぶりも語り草だが、それ以前に町の良心だった保安官や酒場の女主人の悲壮かつ凄惨な最期が凄まじい。腐敗した町を守ろうと最期まで抵抗した2人の随分とあっけない最期に、観客は主人公の復讐を期待するが、その期待さえも裏切るような凄まじいクライマックス場面には何度観ても唖然とする。ロコも認めていたように、普通に撃ち合えば絶対にサイレンスには勝てない。自動拳銃であるモーゼルC96と普通の拳銃との破壊力の差は明らかだろう。そこでコルブッチは実に嫌らしい方法で主人公の足を引っ張る。既に故意の挑発には乗らないとわかっている男に対しての一瞬の判断ミスは致命傷となるのだが、ロコがトドメの一発を発射したのが軒先からだというのが何とも腹立たしい。西部劇のプロットのお約束とも言える「法」や「正義」の元に正面から無法者を倒していく勧善懲悪を排した物語構造、苛烈を極めた皆殺しシーン、巨悪が悪を呑み込むかのようなクライマックスの陰惨さは45年経った今でも色褪せない。それにしても悪魔のようなギョロ目の拝金主義者をクラウス・キンスキーが素っ気なく演じているかに見えるのも実に怖い。原題【THE GREAT SILENCE】に対し、『殺しが静かにやって来る』という邦題を付けた日本製作陣の西部劇愛にも賞賛を禁じ得ない。指がちぎれる、顔がただれるなどの残虐描写はペキンパーやスコシージに影響を与え、モリコーネのスコアに刻まれた独特の哀愁はタランティーノにも大きな影響を与えているのは間違いない。アルトマンの『ギャンブラー』やド・トス『無法の拳銃』と共に、永遠に刻まれる雪山西部劇屈指の名作である。

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