【第481回】『ダージリン急行』(ウェス・アンダーソン/2007)

 ビジネスマンの男(ビル・マーレイ)はタクシーの中で脂汗をかきながら焦っている。インド北西部、コンクリートで舗装されていない土の小道、両側を多くの人が歩く狭い道路をタクシーはのろのろと走る。一向に着かない駅、苛立つビジネスマン。あと数分で急行列車が行ってしまうビジネスマンの焦りを、短いカッティングで繋げたショット群。やがて男は改札に飛び込み、急行列車の末尾を追う。両手には商談用のトランクだろうか?明らかに重量オーバーな両手のトランクが彼の全力疾走の足を引っ張る。スロー・モーションで描かれるビル・マーレイの必死な形相と急行列車の末尾との絶望的な距離がリバース・ショットで折り目正しく描写された後、彼の脇をいとも簡単に追い抜いていく1人の青年の姿。彼はまんまと末尾に追いつき、マーク・ジェイコブス=ルイ・ヴィトンのWネームのトランクをゆっくりと車両に上げる。涼しい顔の青年とビジネスマンであるビル・マーレイの対照的な構図。列車の中に移動した男ピーター・ホイットマン(エイドリアン・ブロディ)は個室のドアを開けると、そこには既にジャック・ホイットマン(ジェイソン・シュワルツマン)が座っている。至ってクールな視線の交差、特に再会の感慨もないまま、顔面を腫らしたフランシス(オーウェン・ウィルソン)が遅れて個室に顔を出す。

3人はホイットマン家の3兄弟であり、1年前の父親の死からずっと口を聞いていない。過去の回想や説明描写は一切ないが、長男が提案したインド旅行が兄弟3人の「心の旅」となるのは云うまでもない。まるで『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の3兄弟のように、3人はそれぞれに問題を抱えている。長男フランシスはバイク事故で瀕死の重傷を負い、顔の痛々しい包帯がまだ取れない。次男ピーターは例外的に父親から愛された人物だが、身重の妻との離婚を考えている。三男ジャックはフランスで小説を書き上げたばかりだが、まったくうだつが上がらない。その上、『ホテル・シュヴァリエ』で会った運命の元カノ(ナタリー・ポートマン)が忘れられずにいる。今作の3兄弟が『天才マックスの世界』や『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の息子たちと違うのは、天才ではなくただの凡人として描かれていることだろう。彼ら3人は父性を失い、悲嘆に暮れ、自分たちも父性を獲得しようと思い足掻くが、志半ばで挫折しかかっている。実は今回の旅の道中には母親であるパトリシア(アンジェリカ・ヒューストン)がいるのだが、どういうわけか彼女は息子たちに会いたがらない。こうして父性はおろか、母性すら失った不仲の3兄弟がダージリン急行の狭い個室に閉じ込められるシュールな構図。亡き父親のイニシャルと動物たちの模様が型押しされた3兄弟お揃いのトランクだけが僅かに、ホイットマン家の絆をつないでいる。ウェス・アンダーソン映画はこうして狭い世界の中=箱庭的世界を愛し、登場人物たちを狭い世界の中に閉じ込める。

『アンソニーのハッピー・モーテル』のモーテルでのパラグアイ人との偶然の出会い、『天才マックスの世界』におけるローズマリー先生の授業風景を覗き見る自発的出会い、『ライフ・アクアティック』における記者ジェーン・ウィンスレット=リチャードソンとの出会い同様に、窓の外の夜風に当たろうとした三男ジャックと隣の車両の客室乗務員リタ(アマラ・カラン)との視線の交差に登場人物はしばしば天啓を得、雷に打たれたかのように恋に落ちる。『ホテル・シュヴァリエ』を踏み潰すような軽薄な出会いにはしばし唖然とする。三男のロマンス、スネーク、兄弟の症例を示す幾つかの錠剤、紅茶など幾つかのモチーフをジョセフ・コーネルの箱庭的世界で謳歌した後、3兄弟は突然ダージリン急行から投げ出される。ここからの発想の飛躍こそがウェス・アンダーソンの真骨頂だろう。列車から投げ出され、父親の形見であるお揃いのマーク・ジェイコブス=ルイ・ヴィトンのWネームのトランクを持ちながら辺鄙な村に現れた3兄弟の前に立ち現れた悲劇は、3人の少年たちというまさに合わせ鏡のような効果をもたらす。遠路はるばる訪れた土地で彼ら3人が目撃した不慮の死が、父親の不在を再現するかのように立ち現れる。『アンソニーのハッピー・モーテル』や『天才マックスの世界』でのプール、『ライフ・アクアティック』での息子を自称する青年の死は墜落した海で起こり、今作では川という水のイメージが再び悲劇の舞台になる。靴を片足だけ盗まれたフランシスの怒り、所有を求めて散々争った皮ベルトなどの幾つかの物質主義の伏線を経て、捨て去った道具が彼らの成長を促すような感動のクライマックス。あまりにも見事なウェス・アンダーソンの美的センスに酔いしれる。

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