【第406回】『四季を売る男』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/1971)

 アパルトマンの吹き抜け、男が地上から遥か高くにそびえ立つアパルトマンの窓ガラスに向かって「ウンkgウンマルク」と行商のような掛け声をあげている。女は中庭の死角になる場所でゆっくりとガーターベルトを上げ、男の方をじっと見つめる。そこに4階の窓からご婦人が顔を出し、「ウンkgちょうだい」と中庭の男に向かって声を掛ける。男はすぐさま果物を袋に入れ、ご婦人宅に届けようとするが、女は咄嗟に「行ってはダメ」と男を諭すのである。この滑らかな導入部分の禁忌と不信感が暗示するように、今作はある夫婦の関係性の静かな亀裂を描いている。ハンス・エップ(ハンス・ヒルシュミラー)は妻イムガルト(イルム・ヘルマン)と共に果物を一面に広げた荷車を曳きながら、夫婦で行商の仕事をしている。だが母親にも恋人にも愛されたことのない男は酒浸りで、妻はそんな男に憮然とした表情を浮かべている。ほどなくしてこのハンス・エップという男はかつて警察官の職を解雇されたことが明かされる。男はファム・ファタールたるしたたかなる女の誘惑に絆され、署内での不倫の咎により警察官の職を解かれたのだ。ここに男の自信喪失の第一原因がある。

夫婦にはまだ幼い娘がおり、家計を楽にするためには夫婦で身を粉にして働くほかない。だが男は愛欲に溺れ、警察官の職を解かれたことを後悔しており、せっかく稼いだお金さえも酒につぎ込んでしまう。それでも妻はせめて夫に毎日家に帰るよう懇願するが、逆上した夫は帰宅したその勢いで妻に暴力を振るってしまう。まだ幼い娘が止めに入るが制止も聞かない夫の暴力により翌朝、妻と娘の2人は実家へと出戻る。妻が戻った先では、実家の家族がハンスのことを見下しているが、ただ一人アンナという女だけは、ブルジョワジーの虚飾に満ちた家庭を恥じており、ハンスも家族も卑下すべき者同士という見解を隠さない。突然舞い降りた離婚の危機に心底痛めつけられた夫ハンスはその場に突っ伏して倒れる。病名は心臓発作であり、医師は妻に対し「旦那さんはもう労働の出来ない体であり、更なる飲酒は命に関わりますよ」と最後通告するのである。ここで夫は改心し、妻と娘に対し尽くすと誓う。それは一家の大黒柱として、自らの不祥事により生活を困窮させたことへの詫びであり、妻への最大限の愛情に他ならない。だが夫の罪と同じく、妻も夫の入院中に一度だけ浮気という大きな過ちを冒してしまうのだ。夫の罪、妻の罪、どれだけ時間がかかっても水に流すのが真の夫婦というものだが、夫は妻のたった一度の浮気を赦すことが出来ない。妻の浮気相手であるアンツィル(カール・シャイト)を解雇し、働けない自分の代わりに働ける男、それも清廉潔白な人物を探さなければならなくなったハンスの前に、かつて外国人部隊で一緒に戦ったハリー(クラウス・レーヴィッチュ)が唐突に現れる。気の置けない男を解雇したハンスはハリーを後釜に据えることで事態を打開しようとするが、このことがハンスにとって決定的な父性の喪失へと繋がるのである。

思えば男同士の深い友情と愛する女との愛情の狭間で葛藤する主人公というのは、ファスビンダーにとって処女作『愛は死より冷たい』以来、何度も形を変えて立ち現れる危ういトライアングルに他ならない。この三角関係の緊密さが皮肉にも異性・同性の性差を越えて立ち現れる自己矛盾、そして最後に残った女のしたたかさも『愛は死より冷たい』と非常によく似ている。だが今作が『聖なるパン助に注意』と明らかに違うのは、物語の説話的構造のわかりやすさと人物のクローズ・アップの多用、それに芝居の大袈裟な立ち回りや所作の多用である。時にズームアップを効果的に用いながら、もぬけの殻になった孤独な部屋、小道具の電話のクローズ・アップ、振り返る大袈裟な妻の表情など、これまでの現実味溢れるファスビンダー作品には見られなかった大衆的なメロドラマへと、表現の質が明確に変化している。もう一つ特徴的なのは場面の反復であろう。娘が宿題を訊ねることの反復、妻と出会った思い出の曲をレコードで流す反復と差異、ここに通俗的な物語の中に転調を呼び込もうとするファスビンダーの意図が汲み取れる。

初期のモノクロ作品から、伝統的なメロドラマへの転向の一番大きな原因は、『聖なるパン助に注意』からのおよそ1年間のブランクの間に観たダグラス・サーク作品の強い影響があるのは間違いない。スクリーンで観たサークの特集上映に深い感銘を受けたファスビンダーは、当時隠遁生活を送っていたサークの元を訪れ、「イミテーション・オブ・ライフ、ダグラス・サークについて」というドイツにおける決定的なサーク論を発表する。「アンチテアター」解体前のファスビンダー作品が、アメリカのホークス、ウォルシュなどの犯罪映画、西部劇やフランス・ヌーヴェルヴァーグの強い影響下で製作されたのに対し、ファスビンダーは初めてダグラス・サーク作品を発見し、50年代メロドラマに自らの野蛮な凶暴性を押し込める活路を見出したのだ。ここで描かれるのは、まさに市井の人々の心の弱さに入り込む悪魔であり、偉大な英雄を称えるような叙事詩ではない。ここにサークの優れたメロドラマとの親和性を見ることが出来る。通俗的なメロドラマの中に潜む強烈な色彩感覚、与えられた環境に適応出来ずに徐々に陰惨を舐めることになる主人公の悲劇は今作以降の作品で何度も繰り返される。まさに初期と中期のターニング・ポイントになった傑作中の傑作である。

#ライナーヴェルナーファスビンダー #ハンスヒルシュミラー #イルムヘルマン #カールシャイト #クラウスレーヴィッチュ #ダグラスサーク #四季を売る男

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?