【第652回】『母よ、』(ナンニ・モレッティ/2015)

 警棒を振るう警官たちの物々しい隊列、「首切り反対」のプラカードを掲げた集団はシュプレヒコールを上げながら、会社の敷地へ近付いて来る。やがて最前線にいた労働者が工場前の金網をよじ登ると、警官隊の容赦ない放水が待ち構える。どこか白々しい阿鼻叫喚の地獄絵図を描いた場面が佳境に入ったところで、女性の「やめて、やめて」の声が掛かる。映画監督のマルゲリータ(マルゲリータ・ブイ)はこの場面でカメラの構える立ち位置に注文をつける。あなたは警察の側なのかそれとも労働者の側か?殴りたいのかそれとも殴られたいのか?この二項対立こそが今作の本質を占める。その日の撮影が終わるとマルゲリータは、母のアーダ(ジュリア・ラッツァリーニ)が入院する病室を尋ねる。一日中点滴が欠かせないアーダは看護師の終わりの合図に、娘のマルゲリータと視線を交わし、優しく微笑みかける。病室では兄ジョヴァンニ(ナンニ・モレッティ)が手作りのイタリア料理を差し入れるが、見舞いに駆けつけたマルゲリータに母は家に帰りたいといつも嘆く。ヴィットーリオとの愛の巣、自分の荷物を片付けるマルゲリータはパートナーから別れたくないという言葉を聞くが、彼女の意思は硬い。アーダの家に住み始めたマルゲリータは実の娘に電話をかける。ラテン語を学びたくないと言うことを聞かない娘を母親は嗜める。マルゲリータには別れた夫との間に一人娘がいて、親権は父親が持っている。

 映画界では「社会派映画の巨匠」として知る人ぞ知る映画監督マルゲリータのモデルは、ナンニ・モレッティ自身に他ならない。『監督ミケーレの黄金の夢』(81)でヴェネチア国際映画祭特別金獅子賞、『ジュリオの当惑』(85)でベルリン国際映画祭銀熊賞、『親愛なる日記』(93)でカンヌ国際映画祭監督賞、『息子の部屋』(01)で同映画祭パルム・ドールを受賞し、世界三大映画祭を制するという快挙を成し遂げたモレッティの半生を反芻するようなマルゲリータの人生は、自らが撮るべき雇用主vs労働者の映画と、母親の看病との板挟みに遭い、映画監督は文字通り、昼も夜もない苦悩の日々を送る。人生とは忙しい時に限って、出会いや別れ、重大な仕事や介護が折り重なりながら主人公を襲う。途中何度も挟まれるマルゲリータの夢現つの描写は現実と幻想の混濁した世界を往来する監督の苦悩そのものだが、それにしてもビギナーには極めて分かりにくいはずだ。もはや絶滅の憂き目にある伝統的なラテン語の教師(学者)として一生を送って来た母親の人生。映画監督になった娘には軋轢や衝突の一つや二つくらいあったはずだが、聡明な母親に育てられた娘はやがて、社会派の映画監督になり、名声を得る。病床の母親は「労働者の映画なんか撮ってどうするのよ」と心配そうに呟くが、社会派監督のマルゲリータは今作が悲しい映画ではなく、力と希望の映画なんだと力強く答える。

 その力強い宣言を打ち消すように、今作の主人公としてやって来たイタリア系アメリカ人俳優のバリー(ジョン・タトゥーロ)の描写が、ナンニ・モレッティらしい悲劇と隣り合わせの喜劇を紡ぐ。監督の意図に沿わない主演俳優の抵抗は他人事ではない。ヴィットリオ・デ・シーカ、ミケランジェロ・アントニオーニ、フェデリコ・フェリーニらイタリア映画史の巨匠の名を臆することなく連呼し、スパイク・リー、コーエン兄弟作品の常連俳優でありながら、自身とは真逆のイタリア語が上手く話せないダメな俳優を演じたジョン・タトゥーロの飄々とした魅力が圧倒的な存在感を放つ。ケヴィン・スペイシーに殺されかけたなんて言葉も実に小気味良くマルゲリータの感情を逆撫でする。それにしても撮影現場の幕間ものがこんなにも魅力的なのは何故なのだろうか?台詞に縛られ、自分を見失ってしまった労働者役の女性に対し、セリフを100%信じることはないという監督の哲学的な問いは、ブーメランのように自身に返って来る。明らかにやり過ぎな3台のカメラをフロント部分に置かれ、奪われる視野などナンニ・モレッティの経験に裏打ちされたNGシーンが可笑しい。完璧主義者として、仕事でも私生活でも他人にも完璧さを強いるマルゲリータと他者との意識のズレにハッとさせられ、上手く行かない映画作りがまるで人生そのもののように思えてくる。

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