【第418回】『ヴィンセントが教えてくれたこと』(セオドア・メルフィ/2014)

 いつもの酒場で酒に呑まれ、「ポルシェ」と「ポーチ」にまつわる、いつものアメリカン・ジョークをのたまう初老の男ヴィンセント(ビル・マーレイ)。そのジョークは例によって不発であり、場を凍りつかせたのと時を同じくして、男の経済状況は最悪の危機に瀕している。青果店の果物の感触を確かめながら、ぶよぶよではない若い実を選択した男は、帰りの道中にペロッと平らげ、不要になった茎の部分を勢い良くヨソの家へ目がけて放り投げる。男の家のエスタブリッシング・ショットを一瞬挟み、ベッドルームに飾られた幾つもの若かりし日のポートレイト、騎乗位のベッドが地震のような揺れを起こすと、一枚の写真が床へと倒れる。そこに写るのは若き日のカップルの幸福そうなポートレイト。そしてブヨブヨの腹の上に乗るヒョウ柄のブラジャーをしたブロンドのあばずれ。テレビでは勢い良く飛び上がるジャングルの猿のスロー・モーションが映し出される。初老の男がフライング気味に食べた若い実ダカ(ナオミ・ワッツ)のお腹は既に膨らんでおり、母親の喘ぎ声が刺激したのか、お腹の子供は元気良く動いている。男は孫がいてもおかしくない年齢ながら、娘のような年齢の女を身篭らせ、お腹の子供はあと数ヶ月後には生まれてくるが、残念ながら男には蓄えも当面の生活費もほとんどない。女を送りながら、左手に握らせた数ドル札を見た女は吐いて捨てるように、「来週2倍払って」と告げるのである。経済危機に晒される中、いつもの酒場のジュークボックスの中から流れてきたJefferson Airplaneの『Somebody To Love』のメロディだけが男の心を浄化してくれる。彼は酔っ払いながらその曲にノリノリでステップを踏む。

このJefferson Airplaneの『Somebody To Love』の持つ意味や時代背景がそのまま男の精神性を表したあまりにも素晴らしい導入場面を経て、飲酒運転で帰路に着いた男は、自分の家の生け垣を倒しながら何とか車を敷地内に停める。酩酊した男は愛犬に餌をやり、呑み直そうとして氷の塊を割るが、案の定アイスピックで自分の手のひらを突いてしまう。絶叫にかられた男は足元の氷に足を取られてしたたかに頭を打ち気絶し、血だらけのまま台所で朝を迎えてしまう。翌朝の不用意な庭木の伐採を経て、隣に引っ越してきた人間との出会いまでがおよそ10分あまりの間に起こるテンポの良さ。セオドア・メルフィと言う作家の新人とは思えない鮮やかな手捌きにはただただ恐れ入る。ビル・マーレイという役者に漂うどうしようもないダメ老人っぷりに対する観客の記号的把握に助けられつつも、この場面でのヴィンセント爺と隣家に住むオリバー少年との決定的出会いは、イーストウッド『グラン・トリノ』並みに大きな意味を持つ。貧しい老人のすぐそばに引っ越してきた親子は実は離婚調停中であり、シッターを雇わざるを得ないほど貧困に喘いでいる。新しい家への引越しを、英語も話せずビザもない部外者に頼んでいることからも容易に想像出来るように、貧困に喘ぐ最下層の親子なのである。その息子がカトリック・スクールに通うのはご都合主義だとしても、カトリック・スクール=聖のイメージが放課後のヴィンセントのシッターによる俗へと落ちる連なりこそが本作の決定的ユーモアとなる。

「呑む、打つ、買う」の典型的で危険な爺と孫のような年齢の子供との共同生活。転校生によくある学校での人種的マイノリティによるイジメ、それを克服させようとする老人の気合の入ったアドバイス。あるいはバッド・アボットとルウ・コステロが登場するコメディ映画の牧歌的な風景に笑う子供や彼に懐き心を許す猫の描写にも明らかなように、彼らはいとも簡単にジェネレーション・ギャップを埋めていく。孤独なオリバーが何よりも欲しているのは留守がちで肥満体型な母性ではなく、何より強い父性であるものの、結果両親の不和によりオリバーは依然として父性の存在を獲得出来ていない。オリバーの学校でのイジメや暴力への服従の原因は全て父性の欠如によるものであり、それを隣家に住む老人のアドバイスが補填し得る脚本の強引さにはやや恐れ入るが、今作でもビル・マーレイという役者は結果的に少年を間違った方向に導くことはない。中盤の唐突なヴィンセント婦人の登場には賛否両論あると思うが、今作で監督が何よりも描きたいのは、お金などなくても、血縁のない少年の心さえも魅了するリア充なスーパー爺さんであり、何よりも強烈なアメリカの絶対的な父性の復活なのである。

別れた妻の遺骨に吐き捨てるように告げるオリバーの子供らしからぬ辛辣な言葉こそが、ヴィンセントの憂鬱を助長するのだが、クライマックスはヴィンセントの辛気臭い涙の謝罪でも告白でもない。そこにあるのはベトナム戦争で傷ついた移民のアメリカ兵を励ます、21世紀のいじめられっ子からの実に小気味良い「リスペクト(尊敬)」であり、20世紀の強いアメリカの爺さんの復権に他ならない。クライマックスの少年のプレゼンは軍隊で云えば勲章ものの名シーンである 笑。ラストの家族の食事の風景こそは、監督であるセオドア・メルフィが理想とする強い連帯のイメージだろう。そこではポーランド系移民のイジメっ子も父性を欲する草食系の鍵っ子も、「呑む、打つ、買う」で家庭を顧みなかったかつての帰還兵さえも、同じ食卓に並び、一緒にご飯を食べる。ただそれだけの光景だが、妙にハッピーな気持ちにさせてくれる。Jefferson Airplaneの『Somebody To Love』と共に、ラスト・シーンに流れるBob Dylanの『Shelter From the Storm』のメロディが、彼の傷ついたアイデンティティ(父性)をも浄化させる。ビル・マーレイの『ブロークン・フラワーズ』級のキャリア最高の演技に驚きつつも、私はむしろ「夜の女」を演じた向こう見ずなナオミ・ワッツの捨て鉢さをこそ褒めたい。確かにアメリカ映画は20世紀の名作群のように「大きな物語」を語れなくなったが、依然として小さな物語からアメリカの歴史をロー・アングルで仰視する術は持ち合わせている。その大胆な佇まいに驚くと共に、セオドア・メルフィの新人とは思えない102分の職人技は真に賞賛に価する。

#セオドアメルフィ #ビルマーレイ #ナオミワッツ #ヴィンセントが教えてくれたこと

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