【第415回】『悪魔のやから』(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー/1976)

 青白い顔をして、金の無心に来た一人の男。彼は自らの切迫した事情を語ろうとするが、疫病神の戯言など誰も相手にしない。おそらくこうした金の工面は何十回も試みられたはずである。このおよそ主人公とは思えない青白い顔をした男がヴァルター・クランツ(クルト・ラープ)である。『不安が不安』では道向こうの部屋に住む死神を演じたファスビンダー作品の常連は、今作では珍しく主役に抜擢されている。かつては革命詩人として持て囃されながらも、極度のスランプに陥ってしまい、もう新作を2年以上も書いていない詩人の男。彼は欲求不満の女房ルイーゼ(ヘレン・ヴィータ)、蝿の死骸集めが趣味の精神に異常をきたした弟エルンスト(フォルカー・シュペングラー)と3人で暮らしているが、特に働きもせず、かつての栄光にすがり続ける男により、3人家族の生活は既に破綻の危機を迎えている。だがそのような切迫した状況下にあっても、男にとっては新しい詩を書くことだけが生きる術である。

やがて神の啓示のようなインスピレーションにより、突如言葉が湯水のごとく溢れ出した男だったが、その溢れ出てきた言葉が実はシュテファン・ゲオルゲというドイツ象徴主義の伝説的詩人の書いた詩と一字一句違わないことが明らかになり、男はただひたすらに失望する。ファスビンダーは自らの旺盛だった創作意欲が枯れ、アイデンティティの危機に陥った男の不安を皮肉交じりに描き出す。ヴァルター・クランツも家族も仲間も、今作に出て来る登場人物たちはみな一様に狂っており、凄いテンションでぶっきらぼうに台詞を吐き出す。そこには抑制された演技や整理された行動はどこにも見当たらない。終始わめき散らしながら、喜怒哀楽のあらゆる感情を解き放つようなヒステリックな演技。まるでドストエフスキーの小説の登場人物のような倒錯・分裂した狂気が主人公に芽生え、それが徐々に回りにいる登場人物たちにも伝染していく。才能が枯渇した男はシュテファン・ゲオルゲの詩世界に同一化するように、遂には自らをゲオルゲだと夢想し始めるのである。

このヴァルター・クランツという詩人の迷いは、ファスビンダー自身が『マルタ』のために書いた脚本が盗作だと訴えられた事件に端を発しているのは間違いない。コーネル・ウールリッチの短編と酷似していたというただそれだけの事件にファスビンダーは妙なこだわりと苦々しさを持ち続け、今作を着想した。主人公の分裂的な行動やサド・マゾ入り乱れたある種の倒錯的フェティシズムは、おそらくファスビンダーの内面の正直な吐露だろう。そこにはダグラス・サークの影響の元、平易なメロドラマの完成形を目指した70年代初期の『四季を売る男』のような面影はない。複雑な物語構造は、ファスビンダー史上、『聖なるパン助に注意』と同等の際立った難解さを誇る。牛乳瓶の底のような分厚いメガネを用意されたマーギット・カーステンゼンの女優とは思えない醜さなど、この頃のファスビンダーは綺麗なヒロインを時として醜悪な人物に見せてしまうほど荒廃していたのである。自分の中にいる他人を夢想しながら、自我を失った登場人物たちが繰り広げる馬鹿げた痴態、不毛なパフォーマンス、ナンセンスな喜劇、それらがないまぜになった今作はパラノイア映画の極北として機能している。

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