【第277回】『フォックスキャッチャー』(ベネット・ミラー/2014)

 『カポーティ』のトルーマン・カポーティ、『マネーボール』ではビリー・ビーンと実在の人物に光を当てた作品を作ってきたベネット・ミラーの3作目(実際にはドキュメンタリーも入れると4作目)。かつて財閥の御曹司として地位も名声も得ながら、妄想型精神分裂病により、友人でもあったレスリングのフリースタイル金メダリストであるデイヴ・シュルツを殺害する。ジョン・デュポンの波乱に富んだ人生のハイライトとも言えるシュルツ兄弟との交流から殺害に至るまでを丹念に描写している。

イーストウッド以降の現代アメリカ映画には、アメリカ社会におけるある個人の姿を通して、社会全体の闇を浮き彫りにするような作品が多い。ベネット・ミラーの作風も明らかに21世紀に入ってからのイーストウッドに影響を受けているのはまず間違いない。ミラーの映画において、主人公はほとんど直感的に自分の人生の決断をする。『カポーティ』ではベストセラー作家であるトルーマン・カポーティが、カンザス州で起きた惨殺事件の新聞記事を読んで、直感的にニューヨークからカンザスへ飛ぶ。『マネーボール』ではビリー・ビーンに見初められたインディアンズのスタッフとして働いていたイェール大経済学部卒の男が、オハイオからオークランドまで飛ぶ。

今作でもレスリングオリンピック金メダリストであるマーク(チャニング・テイタム)は、金メダリストでありながら、練習環境にも恵まれず苦しい生活を送っている。その焦燥の日々に、デュポン財閥の御曹司ジョン・デュポン(スティーヴ・カレル)からソウル・オリンピック金メダル獲得を目指したレスリングチーム“フォックスキャッチャー”の結成プロジェクトに誘われる。自身のトレーニングに専念できること、25万ドルの給料が出ること、そして何よりも彼が崇拝する兄デイヴ(マーク・ラファロ)の影から抜け出すことを願うマークにとって、それは夢のような話である。この導入部分での人生の決断に従い、マークは生まれ育った環境を捨て、フィラデルフィアへと飛ぶのである。

最初、彼は兄であるデイヴも誘うものの、妻ナンシー(シエナ・ミラー)や子供達が元いる場所の生活に慣れているからという理由で断る。思えばシエナ・ミラーと言えば、同年にもう1本出演したイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』でも、夫を銃で殺される妻の役を演じているという奇妙な符号が見られる。兄弟関係は決して悪くはないが、兄から離れたいマークの心境が滲む場面がある。それは自宅に建てられたレスリング上でのマークの肩にデイヴの肩が当たったことで鼻から出血し、それにキレた兄が弟の腕を決めに行く場面である。他に誰もいないこの場面の描写だけで、我々観客は兄弟の関係を理解する。

フィラデルフィアに移ってからの生活は全てが順調で、心から尊敬出来るデュボンという男と出会えたことにマークは気分が高揚する。環境を変えてから初めての大会ではオーナーに恥をかかせるまいと忠誠を誓い、実際に優勝という結果を持ち帰る。しかしここでマークをめぐるデュボンとデイヴの視線の交差が中盤以降のドラマチックな展開を予感させる。その瞳は男同士でありながら、明らかに嫉妬に狂う目線として処理されている。実際にマーク・シュルツ本人が激怒したとされた箇所はこの場面と、中盤のデュボンとマークの明らかに同性を超えた演出の施された場面である。マークは決してデュボンとはホモ・セクシャルの関係にはなかったと断言しており、ベネット・ミラーを糾弾したが、作品自体の出来に関しては認めている。

スポーツ映画の主人公の転落のきっかけとして、往々にして「酒、タバコ、女」が用意されるが、ここではヘロインが唐突に使用される。デュボンの「たかがヘロインじゃないか」という軽い言葉がマークの身体だけでなく、精神までも蝕んでいく。ここはもう少し中毒の症状を見せるショットが欲しかったが、肝心のマーク・シュルツ監修のため出来なかったのかもしれない。ここではまるで『カポーティ』のトルーマン・カポーティが殺人犯と話をする内に、段々と犯人の思いに同情を感じて、精神が弱っていったように、マークはデュボンの姿が段々と疎ましく思えてきて、精神を一気に病んでしまう。ここからのマークとデュボンとの凋落ぶりが描写されていく。デュポンが初めてマークに平手打ちをした時の、マークの苛立ちは陽を見るよりも明らかである。

人に言われて態度を変えるような人間ではないと語っていた兄のデイヴの登場は少し唐突な気もするが、そこから先の三角関係の異様さはなかなか常人には理解しがたい素晴らしさを持つ。体重オーバーで失格となるかもしれない数十分間の攻防の中で、扉の向こうで繰り広げられるデイヴとデュボンの声の聞こえないやりとりを、マークは心ここに在らずな表情で見つめているのである。それ以上にベネット・ミラーが巧くなったなと感心させられたのは、デュボンと母親の関係性の描写である。車椅子でフォックスキャッチャーを訪れた母親を見たデュボンは、母親に対して良いところを見せようと子供じみた仕切りをする。その様子を苦々しい表情で見つめていた母親はすぐにフォックスキャッチャーを去る。この母と息子の静かな確執だけで、映画そのものの質がぐんと上がっている。

クライマックスの場面、イーストウッドの映画では亡骸を看取ることしか出来なかったシエナ・ミラーの絶叫が悲劇を物語る。実際にデュボンがあのVTR映像を観てから凶行に及んだのかは我々観客には知る由もないが、少なくとも今ひとつの出来だった『カポーティ』と『マネーボール』に比べれば、飛躍的に進化を遂げている。しかしながらこの監督を、PTAやグレイやアンダーソンと同じラインとするのはいささか疑問が残る。それはやはり映画が事実を超えていない点にある。確かに実在の人物の描き方は少しずつ熟れてきているが、真に突飛なショットがここにはない。この年のカンヌではヌリ・ビルゲ・ジェイランに次ぐ賞を獲得したようだが、まだまだこの作家の見立ては態度保留ではないだろうか?

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