【第278回】『蝋人形の館』(ジャウマ・コレット=セラ/2005)

 映画監督を目指す人間にとって、未だに「ハリウッド映画デビュー」という言葉には特別な響きがあるらしい。特に非ハリウッド圏から遠くアメリカを目指し、夢を持ってやって来る若者は多い。老婆心ながら我々はそんな人たちに一つだけ助言出来るとしたら、「才能を擦り減らすだけだから辞めなさい」と言うだろう。我々はそのくらい、夢を持ってアメリカへやって来た偉大な監督たちが、本国に帰る時には悪夢に取り憑かれてしまった例をいくつも見てきた。あなたはヴェンダースの『ハメット』やポール・ヴァーホーヴェンの『インビシブル』のような作品を作らないと断言出来るのか?

近年の失敗例で言えば、デンマークのニコラス・ウィンディング・レフンや、南アフリカのニール・ブロムカンプが真っ先に挙げられるだろう。アメリカ合衆国という国は、どんなに偉大なフィルモグラフィを持っていようが、異国の監督の失敗作は徹底的にに酷評する。既にニコラス・ウィンディング・レフンはアメリカから撤退し、イギリスやフランスでの映画作りを模索している。そもそも祖国から遠く離れたアメリカ合衆国に渡り、成功した人間のフィルモグラフィを見て、何かしらの感銘を受けるだろうか?例えば大英帝国のリドリー・スコットや、メキシコから来たアレハンドロ・G・イニャリトゥのフィルモグラフィに何か特筆すべき事柄があるだろうか?そこにあるのは過剰にアメリカナイズされたアメリカ映画以上のアメリカ映画である。それが出来なければ、全盛期には会社を散々潤わせたローランド・エミリッヒやヤン・デ・ボンやジョン・ウーでさえも祖国に帰るしかない。それがアメリカ映画の掟であり、残酷な新陳代謝なのである。

それを知ってか知らずか、現在ヨーロッパやアジアの巨匠と評される監督たちは、はなっからアメリカなんて目指さない。キアロスタミはイタリアや日本には頭を下げて出資を募ったが、最初からアメリカなぞ眼中になかったかのように振る舞う。21世紀、あれ程国内での出資者集めに苦労した黒沢清でさえ、アメリカには売り込みをかけていない。ミヒャエル・ハネケはアメリカ映画を嫌い、はなから相手にしていない。そのように聡明な監督は今日では最初からアメリカなんか目指さないのである。

しかしながらここにジャウマ・コレット=セラという1人の無謀なスペイン出身の若者がいる。スペイン読みはハウメ・コジェ=セラというこの青年は、何とキャリア最初期からアメリカ合衆国に渡り、B級映画の長編作を甘んじて受け入れた無謀な野心家である。例えば同世代でもPTA、グレイ、アンダーソンなどは最初から潤沢な資金で、ある程度自分の撮りたい映画を撮り、それなりの評価も集めてきた。だがスペインから参入する彼には撮りたい映画はおろか、当初はB級ホラー映画しか監督させてもらえなかった。それが今作である。

カーリー(エリシャ・カスバート)は親友のペイジ(パリス・ヒルトン)とともに、それぞれ恋人を連れてアメリカン・フットボールの試合を観戦しようとスタジアムを目指していた。普段は折り合いの悪いカーリーの双子の兄ニック(チャド・マイケル・マーレイ)も友人を連れて同行し、6人グループでの深夜のドライブ。途中、キャンプ場で一泊することにしたものの、異様なにおいが立ち込めていたり、正体不明のトラックに嫌がらせを受けたりと、6人は落ち着かない一夜を過ごす。翌朝、車の部品が抜き取られていることに気づき、途方にくれていた彼らに、声をかける男がいた。近くの町まで車で送ってくれるという申し出に、カーリーは恋人のウェイド(ジャレッド・パダレッキ)と一緒に男の車に乗り込んだ。

今作は1933年と1953年に映画化された同名ホラー作品のリメイクである。地図にも乗らない場所に紛れ込んだ若者たちが、蝋人形館で惨劇に巻き込まれる設定はそのままに、明らかに『悪魔のいけにえ』以降の近代のホラー映画の定型をジャウマ・コレット=セラは巧みに織り交ぜる。冒頭の70年代の回想と、若者たちの乱痴気騒ぎの落差が素晴らしい。この後、殺人ショーに巻き込まれるとは夢にも思わないアメリカの若者たちが、酒を呑んだり、ディープ・キスをしたり、思い思いに夜を楽しんでいる。ディープ・キスのお相手は何と世界のセレブ、パリス・ヒルトンではないか。アメフト会場の近くにそんな未開の地があるとは信じられないが 笑、ショートカットし、キャンプ地の草むらにたどり着く。

森の木々が風にそよぐ様子が不穏さを掻き立てる。実際に彼らが嗅ぐのはとんでもない異臭で、腐乱した死体のような匂いが辺りに漂っている。そこに車のライトをハイビームにして一台の車がまるで威嚇するかのように現れる。その車に乗っているのはいったい何者なのか?彼らは姿を見ようとするが、ハイビームが妨げとなり、男か女かもわからない。やがて痺れを切らしたのか、元アメフト・エリートの男が右側のライトを叩き壊す。これが後の凶行時の犯人のヒントになるのである。

ホラー映画でありながら、中盤まではまったく人が死ぬ気配がない。しかし彼らが分断された時、殺人ショーの幕が開く。主人公のカーリーはうっかり足を滑らせ、動物の死体がうず高く積まれた沼地で服を汚してしまう。仕方なく男性にタンクトップを借りるが、そこからピンク色のブラ紐が見えている。死体収集業の男の風貌は明らかにこの世のものではない。こんな風貌の男に誘われたとしても普通なら絶対に同乗を断るが、どういうわけか若いカップルは男の車に乗車してしまう。ファンベルトを探すためにガソリン・スタンドに寄るのもホラー映画の定型に沿っている。カップルは街に出たことを喜ぶが、そこが殺戮の舞台になるとは知る由もない。

最初に殺されるのは主人公の彼氏だが、いきなりハサミでアキレス腱を切るという殺し方が残忍でえぐい。大抵こういう映画の場合、最初の方に殺される人達の方が悲惨な殺され方なのだが、今作も例外ではない。捕まえられた後の、生きたまま蝋人形にされるやり取りがまた明らかに常軌を逸している。さながら虫の捕食にも似ている人間離れした所業がうすら寒い。次に殺されるのはパリス・ヒルトンのカップルだが、テントの中でパリス・ヒルトンが1枚ずつ服を脱いでいくあたりが実にバカバカしくてIQが低い 笑。よくこんな役をパリス・ヒルトンも了解したなと思う。案の定、彼氏の方が分断して殺され、廃車場のある施設へと逃げるが、か弱い女と残忍なモンスターではあまりにも力の差があり過ぎる。ここでのパリスの無残な殺され方に、ジャンク映画ファンは歓喜だろう。

最後に残ったのは主人公とその兄だが、この2人には色々確執があるのだということを前半匂わせておいた意味がようやく生きてくる。今作においては、女が男を一方的に助けるのではなく、2人の逃亡が男女の共同作業に見えるところに妙な旨味がある。映画館で上映されているオルドリッチ『何がジェーンに起ったか?』のベティ・デイヴィスの錯乱した表情の引用も素晴らしいが、それ以上に素晴らしいのが至近距離からのボーガンである。ボーガンは至近距離からに限る 笑、と言わんばかりのとんでもない刺さり方である。主人公たち2人にも様々な確執があるのに対して、殺人鬼の兄弟の方も心に深くキズを負っていることが明らかにされる場面なんて、20代にしてはなかなか達者である。

このジャウマ・コレット=セラという監督、新しいホラー映画を作ってやろうなんて野心はこれっぽっちもない。ありきたりな手法でしっかりと不安を構築しながら、然るべきところで登場人物たちを躊躇なく殺していく。プログラム・ピクチュアの基本をしっかりと踏襲している。この内容ならば、カーペンターやフーパーなら100分に収めるに決まっていると言うのは容易いが、スペインからアメリカン・ドリームを目指してやって来た監督の最初のステップとしてはそこまで悪くない。むしろ伝統的な手法をしっかり勉強して、一定以上のエンターテイメントに仕上げている。お得意のハイ・アングルの構図も冒頭から随所に用いており、基礎体力の高さが十分伺える処女作となっている。

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