【第386回】『四十挺の拳銃』(サミュエル・フラー/1957)

 フロンティア・スピリットとは名ばかりの、権力が氾濫した西部開拓時代のアリゾナ州コーチス郡。大牧場を経営するかたわら、賄賂で政治家を手なづけ、40人の荒くれ者どもからなる武装集団を女ボス、ジェシカが牛耳っていた。権力が猛威を振るう街にある日、二人の兄弟がこの町を綺麗にすべくやって来る。冒頭、ゴツゴツした坂道を一路コーチス郡へ向かうグリフ(バリー・サリヴァン)御一行の元に、馬の蹄のけたたましい音が辺りにこだまする。馬の手綱を引き、しばしその場に立ち止まった一行の元を、40人が馬に乗って正面から通り過ぎていく。その一団の先頭にはジェシカ(バーバラ・スタンウィック)と呼ばれる女ボスが威勢良く男どもの集団を引き連れていた。正面から迫る大量の馬の疾走に圧倒され、グリフの馬はその場で戦意喪失しているようにも見える。こうしてシネスコ・サイズのフレームの中を、あっという間に通り過ぎていった40挺の拳銃の行方はグリフのその後の運命を予感させる。

流れ者のグリフは保安官助手に協力するという名目で、町で暴れていた男ブローキー(ジョン・エリクソン)の逮捕に貢献する。このブローキーという男、街の権力者であるジェシカの実の弟として、小さい頃から権力を笠に着て暴れているのである。浮かび上がる不良少年という50年代アメリカに通底するテーマが重くのしかかる。ただ自分の欲求を満たすためだけに街を荒らし、いたずらに人々を傷つけてきた少年に流れ者の鉄槌が下る瞬間である。だがその対処法は西部劇でありながら、傍に携帯した銃を抜くことがない。それは何故か?彼は元保安官として合法的な殺しに手を染めていたかつての自分を恥じているのである。弟たちには銃による暴力を禁止し、自らも銃を抜くことのない温厚な男の不良少年との出会いの場面では、銃を撃つ気がないグリフが随分長い距離を歩く印象的なシークエンスで幕が開ける。大股で歩くグリフの足、彼をあざ笑う不良少年ブローキー、彼をじっと険しい表情で見つめるグリフの目のエクストリーム・クローズアップのカッティングのリズムが否応なしに緊迫感を駆り立てる。次の瞬間、平手打ちで地面に突っ伏したブローキーをグリフは保安官事務所前まで引きずり回す。

正義と悪の対照的な構図の中に、男と女の恋心が介入するとどんな化学反応が起きるか?グリフとジェシカは導入部分から互いに運命的な何かを感じ、徐々に惹かれあっていく。この唐突な展開こそがフラー作品の持ち味である。シネスコ・サイズの横長のフレームの中で、並走するグリフとジェシカの後ろから、ハリケーンのような黒々とした一筋の竜巻が徐々に平原を走る彼らに追いついてくる。その大嵐の中で、ジェシカの乗る白馬が突如混乱をきたし前足を高く上げたことで、彼女はあっけなく馬の背中から転げ落ち、数十mにも渡り引きづられることになる。その場面を何と名女優バーバラ・スタンウィックはスタントなしで自ら演じている。グリフが後ろから追いついて彼女を助けるまでの数十m、頭でも打てば大事故にもつながる危険なスタントを決死の覚悟でこなしたスタンウィックの女優魂にはただただ頭が下がる。彼女は40人の男を束ねるボスとしての威厳や風格を自ら進んで演じてみせるのである。

ジェシカの口から語られるブローキーの出生の秘密は不幸なものだが、だからと言って犯罪を肯定する理由とはならない。不良少年には彼を殴り倒す父親のような男の存在が必要であり、ジェシカの優しさは彼にとって厳格な父親にはなり得ないのだ。突然街を訪れた流れ者に女を奪われ、逆上した哀れな不良少年は、姉の愛するグリフの弟を躊躇なく撃ち殺す。そのことに堪忍袋の尾が切れたグリフは、ついに絶対に抜かないと誓った自分の銃に手をかける。40人の下僕との食事会に来訪した際も自らの銃に手をかけようとせず、ジェシカに弄ぶようにいじられた男の抑制した凶器が、遂に火を噴くことになるクライマックス・シーンの圧倒的バイオレンスには興奮を禁じ得ない。フラーが当初予定していた脚本では、ブローキーだけに留まらず、彼の命乞いを赦したジェシカまでもがグリフが10年ぶりに抜いた銃の餌食となるはずだった。だが土壇場で20世紀フォックス社は、ヒロインを撃ち殺す西部劇に難色を示したのである。そのせいでラスト・シーンだけはフラーの本意ではないハッピー・エンドに変えられてしまったが、正義と悪の混濁した世界、自堕落な若者と擬似的父親の対比と命の尊厳、奇抜な構図とショット群は後のヌーヴェルヴァーグの作家たち、特にゴダールによって熱狂的に語られることとなった。

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