【第270回】『パンチドランク・ラブ』(ポール・トーマス・アンダーソン/2002)

 あまり多くはないが一定数はいるPTAに批判的な層の人々の多くが指摘する「PTAの映画は尺があまりにも長過ぎる」という意見に対して、なかなか反論出来ない。デビュー作の『ハードエイト』こそ101分だったものの、グランド・ホテル形式の群集劇だった『ブギーナイツ』は155分、『マグノリア』においては187分とPTAのフィルモグラフィにおける最長時間を誇る。その後の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も158分、『ザ・マスター』が138分、『インヒアレント・ヴァイス』が148分となかなか2時間の尺に収まる気配がない。

『マグノリア』に関して言えば、あの導入部分と最後のまとめの部分はいらなかったよなぁと昨日再見して改めて感じた。あれはおそらく偶然のように見える物事の積み重ねが、実は偶然ではないんだよという寓話的暗示なのだが、だとすればもう少し省略してもバチは当たらないのではないかと思う。『ブギーナイツ』に関しても、後半のポルノ俳優が監督と喧嘩別れし、ハード・ロックの道へ進むところとか、若者の集団にリンチされるところの描写が少し丁寧過ぎた気もしている。あそこをバッサリとカットして、編集し直せば、もう少しタイトに出来たはずだが、そもそもPTAの映画の快楽が少しずつ崩壊していく人間たちの瞬間をゆっくりと描写することだとしたら、その転落の前の描写は緻密にしなければいけないし、どこまでも落ちていく人間を、懇切丁寧に追わなければその旨味は出て来ないのかもしれない。

ただ『ハードエイト』のDVD化に際しては、ジョン・C・ライリーとグウィネス・パルトローのキス・シーンがカットされていたり、表現や時間の制約を自らに課したPTAだけに、この人は本当は短くする能力もあるのではないかと疑っている自分がいる。それでもやはり、敬愛する師匠であるオルトマンのフィルモグラフィにおいても、2時間以内に収まっている幾多の作品を回避し、『ナッシュビル』や『ショート・カッツ』をチョイスしてしまう若者が、150分以上の世界に憧れてしまうのは致し方ないことだと理解している。今作はそんな長尺の作家として知られるPTAが、物の見事に僅か95分という奇跡的とも言える時間に収めた例外的作品である。

バリー・イーガン(アダム・サンドラー)は、トイレの詰まりを取るための吸盤棒をホテル向けに販売している。普段は真面目だが、かんしゃく持ちである彼は、姉のパーティーでからかわれただけでリビングの窓ガラスを次々と割ってしまう困り者。しかし姉の同僚であるバツイチの女性リナ(エミリー・ワトソン)は、イーガン家のファミリー写真を見てバリーに一目惚れ。彼女はバリーを食事に誘い、女性が苦手な彼をなんとかリードし、キスをして別れる。ところがバリーは、自宅に戻ろうとした途端にピックアップ・トラックで拉致される。犯人は、ゆすり屋のディーン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の手先だった。

冒頭、男が早朝に誰かに電話をしながら色々とクレームを言っている。これが朝であれば、まだコール・センターに繋がる時間ではないなどという野暮な疑問はさておき、一旦青いスーツを身に纏った男は電話を切る。フェンスを開けると、そこにはまばゆい光が差し込む。タンブラーで飲み物を飲む青いスーツの男は、修理工場からから通りへと50mほどの距離を歩き出す。そこにいきなりクラッシュして転倒する車が現れ、次の瞬間、謎の赤い車の中から、無造作に置かれたハーモニウム(リード・オルガン)に若い男は呆然とする。この導入部分の奇跡としか言いようのない体験から、女(エミリー・ワトソン)が間隙を抜い現れる。女は修理工場への車の納入を懇願し、渋々ながら男は受け入れる。これが男と女の最初の出会いだったとは、当時この男は知る由もない。

やがてこの男が仕事も恋愛もあまり上手くいかないうだつの上がらない男だと知るのだが、それと共に彼が何人もいる姉から抑圧されている末っ子の弟であることを認識するのである。それぞれに幸せな生活を送る姉たちは、弟の将来を心配するが、当人にとってはお節介以外の何物でもない。複数の姉達から職場へ電話によるホーム・パーティの招待を受ける弟は、明らかに気が進まない様子を見せる。それと同時にこの家族には、母親も父親も両方とも不在であることがやんわりと明らかにされるのである。

情緒不安定なこの男は、明らかに誰かに話を聞いてもらいたがっている。一応はホーム・パーティに参加した弟だったが、そこでの光景は自分自身が惨めに思えてくるだけであり、時に暴力的なスイッチの入る男は、窓ガラスを3枚も蹴り落としてしまう。そんな大それたことをしたにも関わらず、男は歯科医である姉の夫に誰か完全黙秘で話を聞いてくれる相手がいないか聞いてしまう。この場面でのディス・コミュニケーションぶりが見ていて哀れに見えてくる。男は明らかに誰かに悩みを聞いてもらいたがっている。その当たり前の欲望が、悪い組織へ繋がってしまうきっかけとなる。

彼の行為は同情すべき事柄ながら、残念ながらその結果は惨劇となってしまう。ここでPTAはラブ・ストーリーというジャンル映画の定型に対して、フィルム・ノワールの質感を強引にねじ込んでいる。リナ(エミリー・ワトソン)との出会いが、彼に100%の精神的満足をもたらすものの、その出会いとはタッチの差で魔が差したテレフォン・セックスとの関わりが、主人公を苦しめることになる。今作において異様なのは、人間同士の出会いよりも、電話の中の関わりこそが重要に見える点である。バリー・イーガンという男は、開巻早々から電話でのコミュニケーションに明け暮れ、一向に人と人という現実へと向かう気配がない。

しかしながら彼はプリンを大量に購入し、会社の盲点を突きながら、ひたすらマイレージを貯めこむことに命を懸けている。その行為の真意はわかりかねるが、リナと出会い、ゆすり屋のディーンとつながった瞬間から、彼の中に明確な主題が顔を出すのである。ハワイへと飛ぶ場面でBGMとして流れるのは、Shelley Duvallの『He Needs Me』であるが、これはロバート・オルトマン『ポパイ』の一際印象的な場面で使われていた名曲である。この曲をPTAはバリーとリナのハワイでの再会の場面に用いたのである。それも過剰なまでにベタ敷きで、明らかにBGMの域を出てしまうこの曲を、映画の中で最も大事な場面に用いているのである。今作が敬愛する師匠であるオルトマンの無邪気な模倣であることは、誰の目にも明らかだろう。

クライマックスは電話により手繰り寄せた相手を、主人公が完膚なきまでにねじ伏せて見せる。その象徴的な場面が、両者がフェイス・オフになり互いの顔と顔へにじり寄った名場面であろう。あそこでゆすり屋のディーン(フィリップ・シーモア・ホフマン)は明らかに狼狽しながらも、バリーににじり寄るが、男の理解不能な行動に対して、明らかに呑まれてしまっている。ディーンは男の欲望の矮小化した側面にビジネス・チャンスを得るが、物理的に抵抗してきた人間に対して、戦う術を持たない。ここにPTAが電話でのコミュニケーションを頻繁にしてきた意味が生まれている。それと共に主人公にとってこの場面は初めて現実と向き合った瞬間を意味するのである。

思えば今作は、PTAが前作までのテイストとは打って代わり、ハリウッド映画にはないヨーロッパ映画のテイストを大胆に導入した作品であろう。これまで以上に奥行きを多用したカメラワークは、よりダイレクトにバリー・イーガンの心情を伝える装置となる。冒頭に登場した青いスーツに赤いネクタイが象徴するように、今作はPTAのヨーロッパ映画への挑発でもあり、ジャンル映画への挑戦でもある。普通のラブ・ストーリーには飽き足らず、そこに強引にフィルム・ノワールの要素をぶち込むPTAの作劇に共感しながらも、ジャンル映画の定型に奉仕したPTAの姿こそ、一番賞賛されねばならないだろう。

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