『アングスト/不安』映画の粗暴さと物言わぬ死者

薄曇りの中、少しヒンヤリとした田舎道を走る男の狂気じみた息遣いは、明らかに軽いジョギングではない。血に飢えた男の切実さがスクリーンから迫る。

リプチンスキーのカメラワークも彼にピタリと張り付くから、凝視する我々の目はすっかり酔う。三半規管が弱い人は、早々に観るのを辞めた方が良いかもしれない。寒空に響いた乾いたガンショットの後、ようやく水平になるかと思えば、斜めから被写体に差し込むようなロー=ハイ・アングルの組み合わせが平衡感覚さえ奪う。

ここにあるのは私生児として生まれた犯罪人の悲しい独白だけであり、
みすぼらしいが雄弁に語りかける。だが彼に自由気ままに嬲り殺される被害者たちの恐怖の意味ははっきりと明示されない。

雄弁なシリアル・キラーとその毒牙にかかる物言わぬ被害者たち。その残酷な対比が、人間としての境界線を越えた犯罪者の「人を殺す意味」を際立たせるが、人間そのものの「生きる意味」はないがしろにしてしまう。

身障者が匍匐前進せんとした階段の途方もない厳しさは、ガラスをこすりつけながら移動した屍たちの階下への動きと等しい。ここでは生者と死者とは同列なのだ。

彼らの断末魔の叫びは最後まで聞こえず、老婆の入れ歯をくわえ、無邪気に騒ぐ犬のコミカルな動きが、審判の下った死者たちを弔うことなく、残忍に描写する。駐車場での長回しは、死者たちをもう一度死に至らしめる。映画というメディアの持つ粗暴な顔が少しだけ顔を出す。

死者たちはシリアル・キラーに殺され、映画に再び殺される。
なんと痛ましい出来事だろうか?

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