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細田守監督「未来のミライ」を観て (コロモン東京大激突の残光)

好きなアニメーション監督はと聞かれて、学生の頃の僕はまず細田守と答えていた。幼少期のとても特別な時に、特別な瞬間を切り取った(でもそれを原体験と出来ず、高校時代に後追いをした)テレビシリーズデジタルモンスターの細田守演出回と、初期2作の同作の劇場版、おジャ魔女どれみの細田守演出回、そして「時をかける少女」は、唯一無二の視点を持つ、とても素晴らしい作品だと思った。

その反動から、デジモン劇場版2作目のリブート作である「サマーウォーズ」を素直に喜べず、世間により勝手につくられたポスト宮崎駿という立ち位置が(ハウル騒動の影を抜きにしても)違和感があった。(しかしサマーウォーズと共に細田守監督がツイッターアカウントを取得した事で、自分もツイッターを始めた事は自分の人生における大きな転換のひとつだった)

音楽に高木正勝を起用し、冒頭に非道な死を置いた上で地方における(普通という型を超えた子を育てる)シングルマザーを描いた「おおかみ子供の雨と雪」は、過去作の呪縛を超えた魅力に惹かれた。これまでの細田守作品は全てソフトを購入していた。

渋谷に勤務していながら「バケモノの子」は映画館でもテレビでも、未だに未鑑賞。細田守作品への関心がやや薄れていたのに加え、皮肉な事に細田守によって始めたツイッターにおける論調で否定的な意見が多かった事もあり、観ようと思うには至らなかったのだ。

この映画も同様だった。数週間前からツイッターで流れた感想に、この映画がなんで作られたかもわからない、国粋主義的な作品だともいうものもあった。ますます以前の細田作品を愛したままで、新作には関わりたくないと思った。しかしデートで急遽映画館に行く事になり、1番無難な映画を選んだ結果「未来のミライ」となったために、公開2日目に混み合う都内の映画館で、この映画を観たのだった。頭の中では最近山下達郎のラジオから流れる、当映画の主題歌がぐるぐると回っていた。

感想(以下、ネタバレあり)

久し振りの「少年」視点のアニメ映画。大好きなデジタルモンスター劇場版一作目及び、同作テレビシリーズ第21話「コロモン大激突!」がまだ監督の中で腐食せず生きていた事が嬉しかった。まず本作のポスター、上空で手を繋ごうとしている2人がまさに、21話結末のシーンを連想するじゃないですか。物語としても本質的には本作の該当シーンも同様の意味合いが読み取れた。

同時に(宮崎駿の崖の上のポニョではなく)スパイクジョーンズの最高傑作だと思っている「かいじゅうたちのいるところ」とも応答しているような、主人公の少年くんちゃんの奔放(残忍)さが描かれたところが好きだった。家の中をむちゃくちゃにしたり、エンジン音の爆音は、実際のそれではなく、あくまでくんちゃんの感覚によるもの。そしてそれを外の人間からの現実の視点としてわざわざ写し直してないところもよかった。それと、今作はいままでよりもコミカルな漫画的誇張描写を入れていて、それが鼻に付くこともなく、往年の漫画映画と同様の見易さに繋がってた。

細田監督は、劇場版デジタルモンスター一作目の折に、参考作としてビクトルエリセ監督「ミツバチのささやき」をあげていた。

怪獣に出会った兄妹が互いに違う印象を持ち続けるというコンセプトは、映画『ミツバチのささやき』からのモチーフだという。/本作では徹底して大人は顔を出さず不在感をもち、「大人が認知できない子供だけの世界」を描いている。

引用 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/デジモンアドベンチャー_(1999年の映画)

この大人が認知できない子供だけの世界を崩してしまった、細田守演出ではないデジタルモンスターテレビシリーズはとても残念だった。回り回って、「未来のミライ」におけるくんちゃんの「空想」という形でこの世界をまた描いてくれた事が嬉しかった。

しかしその「空想」は、過去や未来との触れ合い・リンク」であり、イノセントな象徴でなく、家系の介入となっている。しかもそれが(監督メッセージから読み取れるように)本作のテーマともなっている。一緒に見に行った子の最初の感想は「あまり子どもらしい子どもではなかったよね」だった。

観ながらいくつかのディズニー映画を連想した。妹が生まれた事で愛情が移った事への嫉妬は「わんわん物語」(飼い主に赤ちゃんができた事への嫉妬→犬のユッコの視点で本作でもそれをやっちゃってる)を。家族の繋がりについては、今年公開の「リメンバーミー」における、先祖のドラマを知る事を。

オタク的な視点としては、本作の結末は「Rewrite」のMoon編だった。

本作の主人公が15歳の青年でなくて本当によかった。

そして冒頭と結末に家の上空(天)からのいれたこと、山下達郎の過剰さのない楽曲2曲を置く事での、一つのドラマではなく、大きなドラマの一角なんだという演出。劇場版ドラえもんやクレヨンしんちゃんのような普遍性もあった。

本作の着地点は、くんちゃんがお兄ちゃんと自覚すること・・ではない。くんちゃんの周りの大人が、何気ない日常の小さな出来事で人生が繋がって家族ができ、家系ができてきたんだから、くんちゃんのこれからも、良い方にも悪い方にも一線を越える(気を引こうと新幹線のおもちゃで赤子の妹を殴るフリをする事から、本当に妹を殴りつけてしまうとしたら/父親が最後まで自転車を乗る事に寄り添ってくれず、途中目を離したショックを引きずったままで自転車を乗る事を諦めてしまったら)、その後の家系への責任まで出てくる事の、なんというか、自分の命や行動は自分だけのものじゃないという重み。最後のこわい新幹線の応答のアレ、視点が未来ちゃんだった場合は、インターステラー的な映画になっていたところを、(もしくはピングドラム)、視点を変えずにいてくれた事が、視聴者としてちょっと救われた。

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