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かもめのジョナサン 完成版

僕が初めて「かもめのジョナサン」を読んだのは、高校生の頃だったと思う。文庫本を図書館から借りて一度だけ読んだ。全3章の短いそれは、シンプルながらも将来に迷う自分にとっても確かに励みになる説話だった。ただ「えさ」を食べるだけに生きる群れを捨て、飛ぶことに意義を持って、あらゆる可能性を超えることに成功したジョナサン。けれども、それ以上に感銘を受けることもなく、気がついたら僕も学生時代が過ぎ、何度か転がりながらも社会の荒波のなかの一員となっていた。

書店で、幻の4章を加えた完成版が出たことを知って、とある時に高めながらも古本でこの本を手に入れて、およそ10年ぶりくらいに、かもめのジョナサンを読み返し、そして初めて最終章であるPart4を読んだ。

内容はそこまで覚えていなかった事も幸いし、こんな話だったんだと、どんどんページを捲った。途中途中挟まれるカモメの写真も美しく(若干多すぎる気がしなくもないけれども、必要な余白と捉えればいいんだろうか)、Part3で再び故郷へ戻り、弟子を作って、新たな価値観をもとの群れにつたえ、元々の結末であるPart3が終わった。確かにこれで終わり?という感じの締めだったようにも思ってしまった。

そして少し間を開けて、Part4を読んだ。驚きの章だった。

以下ネタバレ。


ジョナサンが見出した意義が、一つの膠着した組織、宗教となって、また別の無意味な慣習をつくり出してしまった。全くどうでもいいことや詰まらない言葉の差異だとかに拘ってしまった挙句に、元々の「飛ぶこと」の意味が抜け落ちてしまった。

新しい世代は昔みたいな大きな旗を振りかざした運動はしないけれども、それぞれが、本来の意義を求めてもう一度飛び始めるくだりだとか、けれども生きる意義がわからなくなっていった最後の主役になるアンソニーと、その結末―。それがあってこそ、「かもめのジョナサン」の意味がちゃんとでてくるし、帯だかで書かれているように、その新しい価値観の感覚が、すごく今の時代の感覚に似たもののように思える。

結局、餌をとることって何だろう、生きていく意味って何だろう、やりがいや楽しみって何だろうというような問いは、歳を重ねることに現実との擦れあいの末にどんどん、うまいくらいに余り考えずに済むようになって、目の前の、将来の安全の心配事だけに注意していく、大人になっていっていく。(でもそれが社会的な成熟というものでもある)

それ以上に、なにを求め続けるのかという結末を、これまでの繰り返しの日常に戻る前にちょっと考えるようになったら、それはまた色々な見方も、進む先も、変わっていくのかもしれないなと思ったりした。

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