ふるさとみ。

2023年は手話を学ぶ!!

…と心に決めつつ、未だ覚えた言葉は

「私、栃木出身なの」@Eテレ

なコロボックルです。
…うそつけ。

さて、この出身地トーク、昔から大いに悩みの種でした。
日本、アメリカと行ったり来たりしていると、
「手前、生まれは葛飾柴又、帝釈天の産湯につかり…」(うろ覚えな記憶)というわけには参りません。
スナフキンもびっくりなある種の根なし草、むしろ種。
キミはどこから来たんだい?あっちさーっとくらぁ(唐突な江戸っ子)

先日も友人と、
「出身地が曖昧だから、地元に根付いてたり、故郷を持っていたりする人に憧れる」
なんて話をしていたら、
「じゃあコロボックルはどんなことに郷愁を感じるのか」
という質問をされました。

郷愁かー。
深く考えたことなかったけれど、これはアィデンティティ的な何かに起因しているような気もするので、ちょっと掘り下げてみようかなと思います。

さて、帝釈天の産湯につかる間もなく(そもそも帝釈天の産湯はどこだ)、物心ついた頃にはアメリカはワシントン州のシアトルにいたので、自ら言うのはアレな感じですが、手前、バイリンガルの範疇におります(誰)
シアトル在住当時は、現地校と日本人学校の両方に在籍していたのですが、やはり家庭での主言語が日本語だったからなのか、日本人学校の校歌はやたら鮮明に覚えてるんですね。

その一節に、

「海を超えて ふたつの国を結ぶ
友達よ 先生よ
しゃくなげの花咲く もうひとつのふるさとよ」

…というものがありまして。
これが恐らくは、私のふるさと症候群にぶっ刺さっているものの一端です。

だってずるいんだよ…ずっと長調なのに、ここだけ短調なんだよ?泣くじゃん?(何)

…まぁ、その後また楽しげな長調で、

「輝けよスペースニードル 目指すは宇宙」

と続くので、うおお私の涙を返せー!となるわけですが(何)

そして幼少期に実際のふるさとらしきところに触れられてないので、自然とイメージが童謡の
「赤とんぼ」や「里の秋」、「たきび」、「ふるさと」(秋ばっかりだ)+日本昔ばなしの絵がベースになった「ユートピア的、今はなき日本のふるさと」に憧憬と郷愁を覚えるのかなぁと思います。

ではアメリカ的なふるさとはスルーかというとさにあらず。
不思議なもので、そちらにもちゃんと反応します。
…もうひとつのふるさと、というフレーズの刷り込みがあるのでしょうね。

一番揺さぶられるのは、フランク・シナトラが歌っている「Home on the Range」(邦題:峠の我が家)ですね。
何故か、これもまた、存在しないふるさとへ帰りたくなります。
あとは「Take me home, country roads」(邦題:カントリーロード)や「You are my sunshine」(邦題:ユー・アー・マイ・サンシャイン)も郷愁が募りますね。
…何故か山の方?の歌に反応することが多いのは、腐ってもシアトル育ちが影響してるのかもしれませんね。
川系には郷愁そそられないし…。
(*調べてみたらこれら全部州歌だったんだな、縁のないところばかりですが)

アイデンティティというほどはしっかりしていないけれど、コロボックルの中に根ざすふるさと症候群のお話でした。

あなたは存在しないどこかへ帰りたくなること、ありますか?
(唐突な問いかけ)


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