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幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その10

 68年前に制定されたにも関わらず、制定主体の県から半世紀近く存在を否定されていた『兵庫県民歌』。その空白を埋める記事が44年前の神戸新聞にひっそりと掲載されていた。

■『兵庫県民歌』否定の半世紀・後編

 前編で述べた通り、県は遅くとも1965年(昭和40年)には対外的に「県民歌は存在しない」との見解を表明するようになり、2010年代前半まで半世紀にわたりその見解を維持し続けていた。ところが、その空白を埋めるかのような内容の記事が1971年(昭和46年)11月15日付の神戸新聞夕刊6面に掲載されていたので紹介する。

 うたかたの民主主義欧歌 忘れ去られた兵庫県民歌
 “歴史の変化”に流される 選者さえオクラの理由わからぬ

 交響詩「兵庫賛歌」が発表された。そのかげで兵庫県民歌は忘れ去られたまま、今は思い出す人もない。平和と民主主義をうたった県民歌の生誕は、いかにも花やかであったが、短命にすぎた。戦後史の断片のひとつといえようか。

(後略)

 記事の概略は今年1月1日の神戸新聞記事と重なる所もあるが、この記事が貴重なのは審査委員を務めた富田砕花ら制定に関わった当事者の存命中の声が拾われていることである。
 この記事中で富田は『兵庫県民歌』の存在が抹消同然の状態となっていることについて、制定主体の県側からは何も知らされていないことを明らかにし「なぜか、放りっぱなしになっちゃって…」と悔しさをにじませている。また、当時県民課長だった菱川文博(後にコナミ代表取締役社長、1925-)は「もう使えない。歴史的な存在だ」とコメントしているが、このコメント自体も記者から1947年(昭和22年)制定の県民歌の存在を指摘されてのものであったらしく、記事の冒頭では「兵庫県民歌は、県の記録にすらなくなっていた」と強調されている。

 この記事のスタンスは「復興県民歌」の存在自体が戦後の徒花だったと言う結論であり「戦後民主主義の絶頂に生まれ、その変節とともに命を終えた」「復興のツチ音が聞こえるこの歌が、今の世相にそぐわないのは事実」と非常に辛辣な評価を下している。
 ここで同時期の他県の状況を見ると、以前にも何度か指摘したように「復興県民歌」の先陣を切って制定された宮城県の2代目『輝く郷土』が長らく“亡失”扱いされていた時期と一致する。しかしながら、この『輝く郷土』は1980年代、恐らくは2001年(平成13年)の国体開催地に選ばれて以降の準備の過程で県により制定の事実が再確認されたようである。『輝く郷土』の場合、恐らく1960~70年代には飽くまで「戦後復興のキャンペーンソング」とみなされ「今の世相にそぐわない」と言う評価を下されていたのだろう。1980年代に入り、制定が再確認されて以降も県議会では「歌詞の内容が大時代的で陳腐化している」と3代目の県民歌制定を求める質問が何度か行われた。ところが、2011年(平成23年)の東日本大震災発生後「戦後復興に向けた決意を歌う歌詞の内容が現状にマッチする」と言う理由で一転して再評価されるようになっている。

* 県民歌に思いを乗せて(河北新報、2011.4.25夕刊)
* 宮城県民歌ってご存じですか?(東北放送RADIO CAR、2011.9.10)

 それに『兵庫県民歌』の翌1948年(昭和23年)に制定された『鹿児島県民の歌』も『兵庫県民歌』と同様に歌詞で「憲法」を前面に掲げている『新潟県民歌』も「復興のツチ音が聞こえる」ことに変わりは無い。とは言え、両曲とも(県内で幅広く認知されているかどうかは別にして)現在も歌われている実情を考えると、制定からの社会情勢の変化と「歴史に思いを致す」ことは必ずしも矛盾はしていないのではないかと考えられる。無論のこと「新県民歌制定」を支持する意見が多数であればその手段も検討されて然るべきだが、44年前の神戸新聞の記事は当時も現在と変わらずその前段階にすら至っていない県の不可解な姿勢を再認識させるものであった。

つづく

画像‥竹田城(Blue Windのフリー素材を利用)

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