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幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その7

 占領期の日本で唯一の戒厳令が敷かれる事態となった阪神教育事件を乗り切った岸田は1951年(昭和26年)の知事選で辛くも再選し3期目の県政を担うことになるが、その身には2期目をさらに上回る苦難が待ち受けていた。

■お家騒動、失脚──そして県民歌は消えた

 民選初代知事となった岸田県政では官選第36代福井県知事(但し、現地へは赴かず5日間のみ在職)の吉川覚(1906-1978)が総務部長として招かれた後に副知事へ就任した。吉川は岸田の右腕として二人三脚で占領下の兵庫県における敗戦処理の任に当たって来たが、1952年(昭和27年)にサンフランシスコ講和条約が発効し日本が独立を回復した前後から両者の間に確執が生じ始めた。
 岸田と吉川の対立が決定的になったのは3期目の任期を1年余り残した1954年(昭和29年)で、この年は宝塚市・三木市・高砂市・川西市・小野市と県下に新しい市が続々と誕生した年でもあった。
 殊に川西市が市制施行を記念して市章のデザインと共に募集した市歌では『兵庫県民歌』の作詞者である野口猛の応募作が入選し、宝塚歌劇団理事の酒井協(1899-1982)が曲を付けて制定されている(酒井は同年に制定された宝塚・高砂・三木の各市歌も作曲した)。
 その入選結果を伝える8月5日付の神戸新聞8面より抜粋。

 あれが入選するなどとは……
 市歌の野口氏談

 市歌当選の野口猛氏(四八)は現在尼崎市の小学校校長で二十六年間教壇生活を続けて来た人、少年時代から文学、絵画に興味を持ち詩は北原白秋に師事したことがあり、二十二年には兵庫県募集神戸新聞社後援の「県民の歌」に応募し一等に入選したことがある
野口猛氏談 川西を歌うには私にとっては三年間住んでいたこともあるので、あまりにもイメージが豊かで取扱いに困りました
あれもこれもと歌いあげたかったが結局推こう不足のまま締切ギリギリに出したあれが入選するなどとは思われませんでした

 この記事が出て以降、県の公文書はもとより民間の発行物においても『兵庫県民歌』について多少なりとも記述したものはほとんど見当たらなくなってしまう。その結果『兵庫県民歌』は廃止された訳でもなく、存在並びに制定したと言う事実そのものが歴史から抹消されて「初めから存在しない」ものとして扱われるようになってしまった。

 この川西市歌・市章の入選作発表を神戸新聞が報じたのと同時期に、県庁では“お家騒動”が持ち上がっていた。岸田との確執が決定的になった吉川が叛旗を翻して「県庁ぐるみで不正経理が行われている」と神戸地検に告発したのである。岸田は吉川の告発を「事実無根」として罷免したが、対する吉川の側も岸田は監督責任を取って知事を辞任すべきだと要求し両者一歩も譲らない睨み合いに突入する。
 いつしか「県政の爆弾児」と言う異名で呼ばれるようになった吉川は連日にわたって岸田を攻撃し続けたが、8月には突如として告発を取り下げる。100名余りが取り調べを受けた地検の捜査は主犯格と目されていた公房長(現在の知事公室長に相当する役職)が起訴猶予となっただけで終結し、事件から半世紀以上を経た現在も吉川が告発した不正経理が事実であったのかどうかの真相は不明なままである。

 結果的に吉川の告発取り下げで岸田と吉川の確執は知事の座を巡る権力闘争の一環であると言う認識が広まり、岸田は吉川が支持を失ったと見るや世論の同情を味方に三選を目指す決断を下した。任期を半年弱残して「県政混乱の責任を取る」旨を表明して知事を辞任し、出直し選挙に打って出たのである。
 当初は岸田と吉川の一騎打ちが確実視されていた出直し知事選挙であったが、告示直前になって尼崎市長の阪本勝(1899-1975)が左右両派社会党の推薦で出馬したことから情勢が一変する。12月12日に投開票が行われた結果、岸田と吉川は共倒れとなり阪本が漁夫の利を得て当選。兵庫県政初にして唯一の革新県政が樹立されるに至った。

 岸田が制定した『兵庫県民歌』がその後2期8年の阪本県政で継承されなかった(但し、廃止を宣言した記録は確認されていない)理由が阪本自身の意向であるか、革新県政の樹立を慮った県庁役職員の自主規制が働いたのかは明らかではない。とは言え吉川との確執に端を発する“お家騒動”が残した傷跡は非常に深く、その際のトラウマが3期9年に及ぶ岸田県政の象徴たる県民歌の存在もろとも全否定する方向へ作用したことは大いに考えられる。

 知事の座を追われた岸田はその後、国政に転じて参議院議員を2期務め1968年(昭和38年)に政界を引退、1987年(昭和62年)10月6日に亡くなった。享年95(満94歳没)。

つづく

※2015年3月30日に記述を一部修正

画像‥『篠山町の栞』(1926年)口絵より旧篠山町役場

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