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幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その1

 2015年(平成27年)1月1日付の神戸新聞30面に次のような記事が掲載された。

 布く新憲法 ゆくては明かるし…幻の兵庫県民歌(神戸新聞/2015.1.1)

 実は昨年の秋にこの件で電話取材を受けており(ただし筆者の名前は記事中には無い)、その際に先方へ筆者の側でこれまで調査して知り得た限りのことを説明した成果がこの記事である。とは言え、紙面の制約もあり説明した内容の全ては反映されていないし記事中にある県広報課の説明に対しても疑問が十分に解消されたとは言い難い部分が残っているので、それらの点を含めて筆者が独自に調べた情報を書いて行くことにする。


■『兵庫県民歌』の制定経緯

 この部分の解説は筆者が以前に執筆した以下の記事と内容が重複する所があるが、ご容赦いただきたい。

 失われた『兵庫県民歌』を求めて──1947年制定の県民歌はなぜ「存在しない」ことにされているのか?(ガジェット通信/2014.8.29)

 2015年1月現在、日本の47都道府県で都道府県民歌を制定しているのは43都道府県とされている。この“43”と言う数字には、1947年(昭和22年)に『兵庫県民歌』を制定したにも関わらず半世紀近くその存在並びに制定事実を否定し続けて来た兵庫県は含まれていない。残る3府県は大阪府・広島県・大分県だが、これらの3府県ではスポーツ関係の行事に限定して演奏される「体育歌」を揃って制定しているのでひとまず置いておく。

 兵庫県のみならず近畿地方では戦前から府・県民歌を制定している府県は存在しなかった。戦前・戦中に県民歌を制定していたのは宮城県・秋田県・山形県・群馬県・埼玉県・神奈川県・長野県・山口県・徳島県・佐賀県・熊本県・宮崎県で、このうち現存もしくは復活しているのは宮城県(愛唱歌扱い)・秋田県・山形県・長野県の4曲である。
 1945年(昭和20年)に戦争が終わると、戦前・戦中に制定された県民歌はほとんどが「軍国主義」「皇室賛美」などの理由で連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)に演奏を禁止されてしまう。戦前から圧倒的に支持されていた長野県の『信濃の国』ですら、歌詞にこれと言った問題は見られないにも関わらず演奏が自粛されたほどである。

 この断絶を受けて、翌1946年(昭和21年)からは戦争で荒廃した県土の復興に向けた決意や日本国憲法の公布・施行を記念する“復興県民歌”が各県で盛んに作られるようになった。サンフランシスコ講和条約の発効により日本が主権を回復した1952年(昭和27年)までに作られたものがこれに分類され、その先陣を切ったのは宮城県が河北新報社と合同で実施した懸賞募集を経て制定された2代目県民歌『輝く郷土』である。また、東京都ではGHQが東京都長官に対して『東京都歌』制定を強く働きかけたことを受け、1947年(昭和22年)4月に現在の都歌が制定された。戦後は長らく、この東京都の事例が全国の“復興県民歌”一般の制定理由と同一視され「GHQが米国の州歌に倣って都道府県民歌を制定するよう各都道府県の知事を指導した」と説明されることが多いが、少なくとも東京都以外ではGHQが都道府県民歌制定を勧奨したと言う事例は確認されていない。むしろGHQは山口県や熊本県のように戦前・戦中から存在した県民歌の演奏禁止の方に積極的であったし、1940年代の米国でも半数近い州は州歌を制定していなかった(2015年現在は50州中、ニュージャージー州以外の49州が州歌を制定している)ので、これまで定説のように語られ続けて来た「GHQ勧奨」説は前提の部分からかなり疑わしいと言わざるを得ない。

 いずれにせよ、前任者の公職追放を受けて民間から官選第32代兵庫県知事に任命された岸田幸雄は就任してまもなく「日本国憲法公布記念事業」として「県民歌制定」を提唱したが、これは前述の宮城県や東京都の動きに呼応したものである可能性が高いとみられる。全国(応募資格は県在住・出身者に限定されていなかった)を対象に歌詞の懸賞募集を実施した。賞金は1等(入選)が1万円、佳作は200円×10本であった。

つづく

画像‥兵庫県公館(旧県庁舎)。県が半世紀近く存在を否定し続けて来た『兵庫県民歌』の楽譜が館内の県政資料館(公文書館に相当)に保管されている。

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