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幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その8

 近畿地方で最初の県民歌を制定した兵庫県知事・岸田幸雄は自身の手で罷免した前副知事・吉川覚との確執に決着を付けるべく、出直し知事選に打って出る。ところが、その勝者は岸田でも吉川でもなく左右両派社会党が推薦した革新系候補の前尼崎市長・阪本勝であった。そして、岸田が制定した『兵庫県民歌』はその歌詞通り「長夜の眠り」に就いてしまう。

■国体と県民歌

 兵庫県を含めて全国44都道府県が制定している都道府県民歌で最も多い制定動機は「国体開催」であると言われている。これは半ば定説化しているにも関わらず東京都以外の県では裏付けが無いに等しい(むしろ、反証すら存在する)「復興県民歌」のGHQ勧奨説と違って、資料も明確に残されている。1950年(昭和25年)に制定された『われらが愛知』が最初の「国体県民歌」で(「復興県民歌」にも分類し得る)、1953年(昭和28年)の『高知県民の歌』、1958年(昭和33年)の『富山県民の歌』、1960年(昭和35年)の『熊本県民の歌』、1965年(昭和40年)の『埼玉県歌』などが代表的なものに挙げられる。
 もっとも、最初期の国体では現在のように開会式で県旗を掲揚して県民歌を演奏すると言う慣例が確立されていたとは言えず県旗を持たない県は職員団旗や体育協会の旗で代用していたし、大会限定のテーマソングを作成して大会が終わったらそれっきりと言うことも珍しくなかった。

 兵庫県は2015年(平成27年)までに1946年(昭和21年)・1956年(昭和31年)・2006年(平成18年)の3回にわたり国体を開催している。ただし、第1回は京都府・大阪府との合同開催だったので、実質的には初の単独開催となった第11回が最初と見て良いだろう。
 この国体を仕切ったのは岸田と吉川を破って知事選で当選し、革新県政を樹立した阪本勝であった。2期8年の在任中は革新県政とは言え1960年代から70年代の東京都や京都府、大阪府のような保守陣営との全面対決型ではなく、むしろ1期目は岸田県政末期の内紛で疲弊した保守陣営との宥和・協調に力を注いでいた。他方では知事を引退した後に県立美術館の初代館長に就任したことからもわかるように、在職中から多趣味ぶりで知られ“文人知事”として親しまれた人物である。
 その阪本と国体の関わりとして真っ先に挙げられるのは大会テーマソング『国体賛歌』を制定したことに尽きるだろう。西宮市に本社があったタイヘイレコードが関西学院グリークラブの合唱を収録した『国体賛歌』のレコード盤(品番:M1899)を製造している。このレコードの盤面や大会記録誌では作詞・作曲者の名義が「兵庫県」とされているが、実際の作詞は阪本と富田砕花の合作で作曲は宝塚歌劇団理事の酒井協が行ったことが明らかになっている。

 第11回国体の大会記録誌を見る限り『国体賛歌』の歌詞や楽譜は掲載されているが『兵庫県民歌』は掲載されておらず、開会式で演奏された形跡も見当たらない。参考として第10回までの国体開催県と都道府県民歌制定状況について調べてみると、以下の通りになる。

第1回(1946年)×京都(1984)・×大阪(-)・×兵庫(1947)
第2回(1947年)×石川(1959)
第3回(1948年)×福岡(1970)
第4回(1949年)○東京(1947)
第5回(1950年)◎愛知(同)
第6回(1951年)×広島(-)
第7回(1952年)×福島(1967)・○宮城(1946)・△山形(1930/1947)
第8回(1953年)○愛媛(1952)・×香川(1954)・△徳島(1939)・◎高知(同)
第9回(1954年)×北海道(1967)
第10回(1955年)○神奈川(1950)
◎‥国体開催に合わせ制定
○‥既制定(愛媛は現行の楽曲と異なる)
△‥戦前に制定(山形は戦後に制定した「朝ぐもの」が短期間で形骸化)
×‥開催時未制定(後年に制定された場合は制定年を並記)

 この中で第11回開催地の兵庫県に似た状況にあったのは宮城県である。1953年(昭和28年)の第8回国体(山形県・福島県と共同開催)に合わせて『宮城県体育歌』が制定され2代目の現行県民歌『輝く郷土』とのカップリングで日本コロムビアがレコード盤を製造した。
 なお『輝く郷土』は一時期その制定事実を忘れられ1960年代から1970年代にかけて「未制定」とされる時期があったが、少なくとも国体開催時には存在を認識されていた事実が明らかである点は『兵庫県民歌』と異なっている。

 しかし、阪本県政で歌われなくなったとは言え「1947年(昭和22年)に『兵庫県民歌』を制定した」と言う記憶は遅くとも1960年代前半までは確実に存在していたはずである。何故なら、兵庫県旗は1964年(昭和39年)に現在の兵庫県庁舎1号館落成を記念して制定されたものだが他県、とりわけ兵庫県と同時期に県庁舎落成を記念して県章および県旗(デザイン共通)と県民歌を同時に制定した岩手県や三重県と異なり、県旗しか制定していないからである。普通に考えれば、この時「県民歌は既に制定されているから」県旗しか制定しなかったと見るのが自然であろう。
 なお、兵庫県の県章(徽章)は1921年(大正10年)に当時の営繕課長だった置塩章がデザインしたものが存在しており、県旗は既存の県章とは全く異なるデザイン案が公募で採用された。県旗の制定後、何故か県章はほとんど使われなくなっている。

つづく

画像‥第11回国体記念切手

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