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幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その5

 歴史から不自然な形で抹消された『兵庫県民歌』を制定した官選第32代/民選初代兵庫県知事・岸田幸雄(1893-1987)はどのような人物だったのか。その足跡を追って行くと、何故『兵庫県民歌』が歴史から抹消されたのかの理由がおぼろげながら浮かんで来る。

■官選第32代/民選初代兵庫県知事・岸田幸雄

 岸田 幸雄(きしだ さちお)は1893年(明治26年)2月24日、山口県士族・岸田氏美の三男として京都府で生まれた。京都帝国大学法科(現在の京都大学法学部)を卒業後、官僚にはならず大阪商船(現在の商船三井)に入社。1920年(大正9年)、ジェノヴァで開催された国際労働会議使用者代表団に随行し欧米を視察。帰国後、系列企業の大阪海上火災(現在の三井住友海上)へ移り、神戸・東京の各支店長を歴任する。
 後に戦前の5大電力会社の一角だった日本電力の専務となり、以後は電力畑を歩んでいた。終戦時は電気工事会社協会の会長職に就いていたが、前任者の斎藤亮(1898-1952)が公職追放によって官選第31代兵庫県知事の座を追われた後任として民間から抜擢される異例の形で1946年(昭和21年)1月25日付で第32代兵庫県知事に就任した。

 岸田が知事として最初に取り組むべき仕事が他の府県と同様に県下の敗戦処理であったことは言うまでもないが最初に着手したのは食糧、とりわけ米の確保であった。兵庫県はその広大な県土により米の生産地と消費地の両方を抱えていたが、神戸や姫路は前年の空襲で焦土化しており但馬は比較的軽微な被害だったとは言え県の南北を繋ぐ鉄道網の復旧も立ち遅れていた。よって、県外から米を買い付けざるを得なかったが、この際には電力畑で培った岸田の人脈で北陸から多量の米を買い付けることに成功したと言う。
 そんな中で、半世紀余り続いた大日本帝国憲法に代わり「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三原則を打ち出した新たな日本国憲法が11月に公布され、兵庫県でもその記念事業が開催されることになった。そして、この記念事業の一環として岸田がトップダウンで打ち出したのが「県民歌の制定」に他ならない。
 戦前・戦中に県民歌を制定していたのは宮城県・秋田県・山形県・群馬県・埼玉県・神奈川県・長野県・山口県・徳島県・佐賀県・宮崎県・熊本県の12県であった。1945年(昭和20年)の終戦に伴いこれらの県民歌は一旦全てがリセットされ、現在は宮城県(愛唱歌として復活)・秋田県・山形県・長野県の4県の曲が存続しているがそれ以外は山口県や熊本県を始め、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から「軍国主義賛美」などを理由に演奏を禁止された曲が大半であった。
 近畿地方では京都・大阪の両府はもとより他の県も県民歌を制定していなかったので、兵庫県が他の府県に先駆けて戦後復興の象徴たる県民歌を制定しようと岸田が考えたであろうことは想像に難くない。歌詞の募集に当たって自ら審査委員長を務めたことからも、岸田の「県民歌制定」に対するこだわりが感じられる。

 そして、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行を迎え『兵庫県民歌』は兵庫県議会議事堂で執り行われた記念式典で華々しく披露された。5日後、当時は花隈にあった神戸親和女学校講堂で改めて発表会が行われ、9日付の神戸新聞記事によればこの席で岸田は「県民歌制定の意義と普及を願うあいさつ」を行ったとされている。
 しかし、この時に制定された県民歌は岸田の願いとは裏腹にその存在すらも否定されるほど希薄化してしまい、文字通り「長夜の眠り」に就いてしまう。それはあたかも、県民歌制定に先んじて行われた第1回兵庫県知事選挙で改めて民選初代知事となった岸田自身に降りかかる不遇な出来事の数々と軌を一にしていたかのようであった。

つづく

画像‥辰鼓楼と出石の街並み(豊岡市出石町)
Wikimedia Commonsの画像を利用(撮影者:663highland、CC-BY-SA 3.0

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