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幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その6

 かくして1947年(昭和22年)に民選初代知事・岸田幸雄の手で『兵庫県民歌』は制定された。しかし、岸田県政はその翌年に発生した事件のため重大な危機を迎える。

■阪神教育事件

 1948年(昭和23年)4月に発生した阪神教育事件は後世の評価が両極端に分かれており、中立的に語ることが非常に難しい事件である。行政の側からは1945年(昭和20年)から翌46年にかけて発生した生田警察署連続襲撃事件からの地続きで「当時相次いでいた在日朝鮮人の暴動で最大規模の事件」と評され、対する在日朝鮮人の側からは「民族教育を受ける権利を一方的に奪おうとした行政に対する闘争」であると評価されている。そのため、後者の立場からは「阪神教育闘争」とも呼ばれている。

 事の発端は、日本がポツダム宣言を受諾して朝鮮・台湾などの領有権を放棄した後の朝鮮半島で前年9月に建国を宣言した朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と、米陸軍司令部軍政庁が北緯38度線を挟んで対峙していた南北朝鮮の緊張感の高まりを危惧した連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が在日朝鮮人の子弟を日本の教育基本法・学校教育法により監督するよう指令を下したことにある。
 文部省は当初、ハングルの読み書きについては「追加教育」として認める一方でその他の教科については日本の教育制度に準拠したものとすることを条件に朝鮮学校を各種学校として認める方向で検討していたがGHQの指令が下されると直ちに都道府県教育委員会へ「朝鮮人設立学校の取り扱いについて」(朝鮮学校閉鎖令)と題する通達を出し、全国の朝鮮学校を閉鎖して在校生を日本の公立学校へ編入させる旨が命じられた。
 1948年(昭和23年)4月、各都道府県知事によって朝鮮学校閉鎖命令が発令されるが各地で命令撤回を訴える抗議が相次ぎ、その中でも特に苛烈な抗議運動が行われたのが大阪府と兵庫県であった。4月23日から26日にかけて発生した大阪府の抗議活動では暴動に発展した末に2名死亡、20名余りが負傷し179名(在日朝鮮人だけでなく抗議行動を支援していた日本共産党員らの日本人も含む)が騒擾罪で検挙されているが、神戸でも大阪と同様に大規模な暴動が発生していた。

 岸田が文部省通達を受けて4月10日に発令した朝鮮学校閉鎖命令に対して、4月14日から在日朝鮮人代表者が何度も県庁を訪れて命令の撤回を要求したが双方の主張に隔たりが大きく、とても交渉と言えるようなものではなかったとされている。4月23日、MPと警官隊が実力行使で神戸市内の朝鮮学校2校を封鎖。翌24日、封鎖に抗議する一団が県庁を取り囲む中で岸田らは今後の対応を協議するが、暴徒化した一団が県庁を襲撃し岸田は知事室に監禁されてしまう。
 監禁された状態で岸田は「朝鮮学校閉鎖命令の撤回及び仮処分命令取り消し」「朝鮮学校存続の承認」「逮捕者全員の釈放」を誓約させられるが、暴徒が県庁を占領して知事が人質に取られると言う未曽有の事態に対して軍政部が非常事態宣言を発令する。これを受けて23時に米軍憲兵と神戸市警察の警官が県庁へ突入し岸田を救出、監禁の実行犯らは全員が検挙されると共に「強迫による誓約は一切が無効」とする通知が出されるに至った。
 28日に非常事態宣言が解除された後、暴動に加わった1000名以上(資料により隔たりが大きく、1590名とも7295名ともされる)が摘発され最終的に23名(日本人は共産党の市会議員1名のみ)が起訴された。
 一連の事件を受けて文部省は在日本朝鮮人連盟の代表者と覚書を締結し、GHQの指令が下される以前の方針通りに朝鮮学校は日本の教育基本法・学校教育法を遵守する下で運営され、文部省は朝鮮学校を各種学校として認可することが確認された。

 この事件は、戦後70年が経過した現在に至っても岸田県政の評価に影を落としている。冒頭で述べたようにこの事件に対する客観的・中立的評価は発生から67年を経た現在も定まっておらず、また知事としての岸田に対しては右の立場から「暴力に屈した軟弱者」、左の立場から「米帝の傀儡として民族教育を受ける権利を奪おうとした小役人」と低劣な評価を下される要因となってしまっていることは否めない。
 事件を乗り切った岸田は1951年(昭和26年)の知事選でどうにか再選され、官選の時代を含めて3期目の県政を担うことになるが、その先にはさらなる波瀾が待ち受けていたのであった。

つづく

画像‥1935年・日本電力専務時代の岸田幸雄(出典:国勢協会『関西名士写真録』

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