ワールドフリッパーがサービスを終えます

そしてオフラインアプリになります


このnoteをご覧のみなさん(の大多数)には何を今更の話ですが、有川がシナリオの総監修とメインストーリー執筆を担当していたスマホゲーム『ワールドフリッパー』が2024年2月20日に4年超に渡ったサービスを終了します。

それと同時に、この日から『ワールドフリッパー』はメインストーリーとイベントストーリー、そしておよそ1200話にも及ぶキャラエピソードと各種ボイス・BGMを楽しめるオフラインアプリとしてアップデートされる事が決まっています。

1200話超というのが既にちょっと常軌を逸している気もしますが、輪をかけて逸しているのは、その全てが映像作品として手抜き無しで作られている事でしょう。
そう、全部。全部なのです。全部の話が全部、キャラクターが動き、アクションし、書下ろしの背景の中で飛んだり跳ねたり爆発したりします。★5に至っては書きおろしの専用BGMまでついている(おかしい)(★5の方が多いのに)。
実際どんなものなのさ?というのは、以下の動画で一目瞭然です。

https://twitter.com/errorworld/status/1708702211944153422

こういった映像が各キャラクターのエピソードとしてあり、それが1200超あります。てか1200超て。何度も書いてるとちょっと笑えてきますね。よくもまあそんなに……。
(ちなみにメインストーリーはこうした映像演出やカメラワークから殺陣の設計、キャラの細かい演技なんかも有川が設計していたので、演出家としての仕事もみていただけたら嬉しいな~と思っています。演出もできる脚本家。御用はありませんか。今、絶賛無職中です)

ノンストップなアクションバトルである事とか、奥深く多様なデッキ編成が可能なゲーム性に比べてあまりアピールされなかった部分ではありますが、正直これだけの『質量』をもったアプリは、なかなか無いのではないかなと思います。というか、割と前代未聞なのではないかと……。いや、分からんけども。あるかるかもしれんけども。だけど非常にとても稀でヤバイ事は間違いない筈……!

そして声を大にして言いたいのは、その1200超のエピソード『全てが』高い品質を保っているという事です。マジの、マジモンの、どこに出しても恥ずかしくない全力投球のドラマが、全てのエピソードに投入されています。果たしてこれが大言壮語なのかどうか、是非ご確認ください(いうて映像の暴力だけでも勝てるやろ……!という勝算があるのででかい口が叩けています)。

そんなスーパー質量コンテンツ、オフライン版ワールドフリッパーを是非よろしくお願いします。2月20日。アップデートです……!
※とはいえとはいえ、RPG的なバトル攻略をしながらの物語体験は本当にこの今だけの体験となります。『AIが人類に成り代わった世界で最後の人類を主人公達が殺すシーン』とかはバトルならではの体験ですので、後三日ですが、駆け抜けていく事もできなくはありません。時間のあるあなた!有川の知人友人のそこの君!是非!是非ね?是が非でもね?どうかお楽しみを!!

ながい時を振り返って

そして本来ならば記事の頭で書くべき事でしたが――おそらくは本作を愛してくださったみなさま。本当に、4年間のご愛顧をありがとうございました。本作を代表する立場ではまったく完全にありませんが、シナリオ制作に携わった一個人として、心よりお礼申し上げます。
ちなみにワールドフリッパーのメインライターなる人物の振り返りは、ゲーム情報メディアであるINSIDEさんがすてきな記事として世に送り出しております。もうそこに全て詰まってるので。是非!

ですので、ここからは個別の仕事の話ではなく、有川がシナリオライターとして歩みはじめたこの10年ほどを振り返る、単なる自分語りをはじめます。しみったれた、しょーもないオレオレ話が好きな方、ガッカリしない方、ご留意の上お付き合いください。

大丈夫ですか。

大丈夫ですね。

えー。それではまあ、昔話などを一つ。
思い返せば、およそ10年前。『ジュエルセイバー』というゲームを作ったのが、全ての始まりでした。
時はソシャゲバブルと呼ばれる時期(――が微妙に終わって、ガラケー界隈はもうなんか色々レッドオーシャン味が激増してた時期)の事です。「コンシューマーゲーム業界で挫折した自分でも、テンプレのソシャゲなら作れる気がしますので、やっちゃいません?」と当時の所属会社に、舐めた提案した男が居ました。男は更に舐めた見積もりで「キャラの掛け合いぐらいなら俺でも書けるんじゃね?」とシナリオ制作経験が皆無だったのに舐めプの限りを尽くしました。試しに夜中に書いた二人の少女の掛け合いが、わりとなんか可愛い感じで書けてしまって、いい気になっちゃったんですよね。

結果を言えば、ジュエルセイバーは商業的には芳しくない結果を残したプロダクトでした。『コンテンツフリー化(イラストテキストを無料で自由に商業利用してもエエよ)』という奇策を打ち出した事で、辛うじて世に爪痕を残せた作品だと言えるでしょう。
※ただしカードイラストのクオリティは高品質でした。フリーコンテンツ化が成功したのも兎にも角にもイラストがよかったお陰です。
ですので、制作者としては悔いの多い作品だったのです。正直、至らず足りぬ事ばかりだったなと。ただ、それでも今も尚、twitterで検索すれば作品の思い出を語ってくれるユーザーさんがいる作品であり、自分自身にも『まだ描きたいもの、語りたいものがある』と気づかせてくれた、原点ともいえる作品でした。舐めプではじめたライター業を、その後の人生を賭するものにしようと決断させるに至った作品だったのです。私をライターにしてくれたのは、当時のファンの皆様だったと、真剣に思っています。

さて、そんなジュエルセイバーもサービスを終了し、フリーコンテンツ化施策が進んでいた頃。仕事中もほぼ上の空だった自分の頭の中を占めていたのは『では、自分はなにを描くべきなのだろう?』という事でした。
まずジュエルセイバーでやり残した事、描き切れなかった事があります。ですが、どうしてかそれと連鎖し共鳴するように、数年前に世を賑わせた犯罪者についてのルポだとか、社会的弱者と強者の定義論だとか、或いは自殺してしまった父の親友(自分にとってはギャンブルやくだらない遊びを大いに教えてくれた、大好きだったKさん)の事をしばしば考えるようになっていました。つまり『思想性』をグツグツ煮詰めていたのです。

物語と思想性

思想性。ちょっと大仰な言葉ですが、右派や左派といった既に類型化されたイデオロギー的なものとはちょっと違うものと思ってください。
※特に党派を問うような話は『所属』や『ポジショニング』の話なのでここではあまり重要ではありません。
例を出すのならば『死生観』などでしょうか。或いはもっとミロクな……なにに怒り、なにに悲しみ、なにで笑うのか?世界をどのように視るのか?どのような質感を感じ取っているのか?どんなものを自らの財宝と見做すのか?といったような『個人の内に在る世界観』とも言い換えられる言葉と考えてください。

異論も異例もあるでしょうが、私はこの『思想性』をシナリオライティングにおける非常に重要な要素だと考えています。これはなにも高尚で教育的な作品に限るものではなく、エンターテイメントの中核を成すものと考えており、例えば鳥山明先生の『ドラゴンボール』などはある種の思想性が堅持された作品の好例としてよく話をしていました。他にも例を挙げるのならば、手塚治虫、藤田和日郎、宮崎駿、富野由悠季、庵野秀明――偉大なる作家達は誰かの財産となり得る思想を描きます。
※悟空がフリーザを殺した時の無言の表情とその構図。そして魔人ブウにまたな!と言って再会を願った時の表情とその構図。その意図的すぎる対比から浮かび上がるものは……!みたいな話を書き始めると1万文字ぐらいになるのでここでは我慢します。読もう!ドラゴンボール!!
※ですから、自分が率いるチームには各人の思想性を克明にするために徹底的な言語化を求めました。「この物語と、あなたの内にある思想が知りたい」「なぜ、このキャラクターはそうしたのか。そうせざるを得なかったのか?その理由が知りたい」といった厄介な質問を浴びせる事を日常としていたものです(こんな厄介な人間とよく付き合ってくれたと思います。みんなありがとう……)。ちなみに思想の言語化というのは別にライターにとっての必須スキルでもなんでもないのですが、思想性の濃い物語を『複数の人間で共有して作る』にはちょっと避けては通れないものではあります。

ただ一方で、こうした思想性の強さはプロダクトの仇になる場合もあるでしょう。思想性が硬直化した脚本は息苦しいものですし、攻撃的な(他責的な)面を帯びた物はしばしば『説教臭い』と称されます。それと、発注側の立場を考えば『要件に従わない、扱い辛い取引相手』と思われてしまう危険性もありそうです。
幸か不幸か、自分の場合は『コンセプトを考えるのは自分。要件を作るのも自分。書いて作って検品OKするのも、自分』という状況がキャリアのほとんどでした。お陰で発注者と揉める系の問題からは遠ざけられていたのですが、逆にいえば一人で煮詰めた過ぎた思想性が前述したような問題を起こす危険は高かったのです(正直に言えば、これは今もまだ抱えてる不安の一つです)。

それからどんとこしょ

では、その結果は、どうだったのか。思想性を打ち出していくぞと心に決めて、シナリオライターの世界に踏み込んでいった結果は、どうなったのか。
大雑把に見た感触を言えば、私は大きな大きな励ましと手ごたえを感じる毎日を過ごせました。私の元に届く声援は、本当に、予想以上というか、予想外というべきものだったのです(だって私の領分は、本当は『オマケ』と見做された部分だったわけですから)。
ただ、これは『正しかった』という話では断じてないですし『通じたのだ』と思うのも若干おこがましい程度の感触です(思想を込める事、意図を設計する事は物語を豊かにしますが、物語はそうした作者の意図を超えて自由に受容されるのが常だからです)。ですから、いうなればこれは『どうやら、最後まで話を聞いてもらえたようである』というぐらいが、ちょうどいい感じかもしれません。
長い長い話に、付き合ってもらえた。自分の見つけたものを、一緒にみてもらえた。――そんな事は、実は人生においても稀な事なのです。
たとえ、見ているものが真には違ったとしても。

だからここで伝えたいのは、ただただ感謝です。本当に、ありがとうございました。最後の最後までお付き合いいただいた事を、嬉しく思います。
もし、また私の話にお付き合いいただけるのならば……オフライン版のワールドフリッパーを是非よろしくお願いします!沢山詰め込まれておりますので、初めての方は勿論、これまで読んでいただいた方も是非!二度三度読み直すのも乙なものです。どうかお楽しみください。きっと後悔はさせませんので!

もうひとつ謝辞を

ここからは更に個人的な話を。
思想性マシマシでライターやってました!という話をここまで書きましたが、この数年で最も嬉しかったのは『違う思想性の人と、協同できた』という事でした。かつては、チームで物語を作るという事に打ちのめされ「もういい……もういいんだ。最早命を賭し、自分だけでやるしかないんだ…………」などと腐った魚の眼と偏狭な心で『違うもの』を拒否していた日々もありましたが、激動の日々で出会ったライター達は『違う事が楽しい』『その違いに感化されてしまうのも楽しい』とすら思える人々でした。先に書いたように、煮詰まった思想性が硬直したり攻撃的になったりする罠を、もし私が回避できていたとするのならば、それは間違いなくこの素晴らしいライター達と出会えたがためです。
また一緒に、仕事しましょう!(仕事あったら、回してね!)


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