選書のために

 子供が大好きで、妻のこともまあまあ好きで、家族で頑張っていこうという気概が持てている。それによって、ある程度自分を律することもできてきたし(まだ足りてないけど)、これまでの人生において一番といって差し支えないほど幸せである。
 ところが、どことなく満ち足りていなさも感じる。最近ときどき、中学生の頃を思い出す。何者でもない割に自信に満ち溢れていた。人を見下していた。俺は何にでもなれると思っていた。何かを残す存在であると、信じて憚らなかった。
 今では、それは誤りであったと当然ながら思う。私は計画的でないし、何かを成し遂げたいという根本的な意欲に欠ける。切羽詰まらないことには行動を起こせないタイプの人間だ。私は自分のそういった部分を赦し、換言すれば諦め、それでも根底にある自分への信頼感だけは失わずに、ここまで生きてきたつもりである。それは自分が幸せな状態に至るために、とても必要なことだった。
 家族という基盤は、私にとってかけがえのないものとなった。かけがえのない、という言葉をためらいなく使えるほどには、かけがえがない。子供の細かな挙動の一つひとつ、「パパ」と言ったとか靴を脱げるとか手が洗えるとか、それらすべてが愛おしく、彼のためであれば身を投げ出せる気持ちを持っていると信じている。この基盤のおかげで、私はこれまでの人生で初めて、他人との比較でない、自分の尺度で生きていられる気がした。
 それで済めばよいのだが、果たして自分はこのまま死にゆくのかという不安がふつふつと。これには、直近の健康診断があまりよくなかったことも関連しているかもしれない。20代の頃だったらさほど気にもとめなかっただろうが、家族がいるという気持ちのおかげで、食生活にはかなり気を付けるようになった。食物繊維をかなりとっている。思春期以降悩まされてきた便秘と下痢の繰り返しから解放された。私はまだ死にたくないのだ。煙草を吸う自由を奪われたくないというむきもある。
 話を戻すと、これまでも子供の成長の向こう側に自らの老いを見てきたものの(子供が一ヶ月前から成長している分、私は一ヶ月分老いているという感覚)、健康診断結果という書面の形で現前化した結果、少し気が早いが、「死」が目の前に来てしまったのかもしれない。そして改めて、「何かを成さねばならない」という、自分の根底にある、その割に実態を伴わない欲望が、ふたたび表出してきたように思う。
 困っている。アプローチはいくつかある。その欲望を忘却すること、その欲望の不健全さを証明すること、その欲望に沿って生きる覚悟をすること。まだ答えが見つかっていない。


 もう一つ。関連して。
 仕事について。私はこの4年ほど、いわゆる企画職と呼ばれるような仕事についている。システムだったり人事だったり、企画の対象は変わっているが、とにかく企画職である。
 私はこれに大変向いていないことに気付いてきた。正確に言うと、とっくに気付いていたことをここ最近承認できた。
 企画職は時間間隔が長い仕事である。企画の立案、スケジュールの策定、実行とそれぞれに細かいフェーズが存在し、プロジェクトの終了までにも時間がかかるうえに、得たい結果を実感するまでとなるとさらなる時間がかかる。
 私はこれにとても向いていない。
 私は自分がこれまで、どのような仕事をしているときに楽しいと感じてきたかを記述しようとした。恐ろしいほど思い浮かばなかったが、いくつか書けた。
 私は抽象的、または具体的な議論と、即興的なトラブル対応と、個人の志向性を発掘することを好む。
 一方で、私は計画を立てることに喜びを感じない。また、目標や目的を決めるプロセスには興味があるが、その内実はどうでもいい。みんな好きなようにすればよい。矛盾さえしていなければ。
 私は企画職に向いていない。
 私は、仕事というのは計画を立てるものだし、目的があってしかるべきだと考えてきた。そしてそれができないのであれば、乗り越えるべきだと。それを苦痛に感じるのはむしろ良いことで、苦痛を感じないのは仕事に非ずと。
 でも、そんなことを言っていたらもう31歳になってしまい、苦痛を感じながら中途半端なアウトプットを出し続けるだけで人生が終わってしまいそうだと思ってしまった。そう思ったら、なぜ自分が仕事と苦痛を密接に関連づけていたのか分からなくなってしまった。自分の主観的にも楽しくて、客観的にも有用な、そんな在り方があるのではないか。(お金もそれなりに欲しい)
 でもそれが何なのかわかっていない。私は、職業紹介をしてほしいわけではない。それは適切な場所がある。私は、仕事というのが私にとってどうあるべきなのか、どのようなあり方がありうるのか、わかりかねている。アーレントは、大学生の頃に半分読んだ。

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