見出し画像

私だけの庭

カフェの中庭には溢れるほどの陽光が降り注いでいる。

この店の中庭には沢山の緑が植えられ11時オープンの前にスタッフが水を与えたのであろう緑の葉には水晶のような水玉が鈴なりなり葉の光を反射してみずみずしく光り輝いている。

その緑の真ん中に二人がけのテーブルが三つ置かれている。

私はその中の一つに腰を掛け運ばれてきたアールグレーのカップを傾けている。

木々は地面から水分をたっぷり吸い込むように葉の一枚一枚をシャッキリさせて太陽に向かって思いっきり伸びをしているように活き活きと立ち並んでいる。

そんな生命力に囲まれながら私自身も活力がみなぎってくるのがわかる。

私にセンチな気持ちなんて必要ない。

いつでも太陽に向かって伸びていくこの木々達のようにひたすら光を目指して伸びていくだけだ。

ふと人の気配に振り返ると一人の若者が立っている。

「今、何時ですか?」

私は飲んでいた紅茶を思わず吹き出しそうになるのを堪えながら彼をみた。

時間など気にしていないのは明らかだった。

今どき時間の確認など彼が手にしているスマホを見れば簡単な事だろう。

その上で時間を聞いてくるなど昭和のナンパでもやらないのではないかしら?と思うほどチープでユーモアに富んでいた。

ならば私も・・。

「光源氏よ」

彼が手にした本が目に入った。

「あさきゆめみし」

流石にコミックではないがノベライズだろうか?それにかけて光源氏とダジャレで返したがもう少しセンスあるダジャレのほうが良かったわと顔を赤らめかけた。

すると彼は驚いたように目を見開きすぐに満面の笑みをたたえて「ありがとう」と言った。

そして「隣良いですか?」と聞いてきた。

さして断る理由も無くそれより何故時計を聞くふりをして私に話しかけてきたのか?そこに興味があった。

彼は近くのデザイン事務所で働く人で時折自分の始業前にこのカフェに寄っているとの事だった。

「実はあなたのことは前から知っていました。店でコーヒーを飲んでいると時々あなたがここで紅茶を飲んでいるのを見掛けました」なるほど確かに店の中からはこの中庭が良く見渡せる。私が彼に気がつかなかったのは私がほとんど店の中の席には座ることはなくこの中庭に直行するからだった。

「いつもあなたは緑の中で自由に呼吸をしている人に見えた。僕はいつもガラスの向こうからあなたを見つめるだけだったけどさっき空に向けて気持ち良さそうに深呼吸をしているあなたを見て今日はどうしても話しかけたくなったのです」そう言って彼は恥ずかしげに目を伏せてはにかむ。

そんな風に私を見ていた人がいたなんて。

彼の始業時間は12時からだった。それまでの間私たちは初めて会ったのでは無いようなくらい色々な話をした。時はあっという間に過ぎ12時10分前になっていた。

「もうすぐ始業時間よ。そろそろ行ったほうが良いわ」若者らしくもう少し良いじゃないかというような声にならない言葉を飲み込み彼は

「分かりました。もう行きますね。でもまた会えますか?」と尋ねた。

私は「ええ・・きっとまた会えるわ」

その言葉の後に約束を取り付けたがるであろう彼の言葉よりも速く

「会える定めなら何もしなくてもきっとまた会えるわ。その偶然に期待しましょうよ」

ズルい約束の言葉は意外にも彼には効いたようだ。

若い人はとかく運命などという曖昧な表現が好きだ。

彼は胸がいっぱいだと言うように瞳を輝かせ私に一度振り向くと店の中に戻りテーブルの間を縫って店を出て行く。

その後ろ姿を目で追いながら

「もうこの店に来ることもないだろう。そして彼に会うことも二度とない」と思った。

せっかく気に入った店だった。

何にも邪魔されず私だけの空間でつかの間の自由な時間を楽しみたかった。

私には伴侶がいる。

若さは時として暴走する。

ただの茶飲み友達では居られないだろう。

人からはただの自惚れと映るかもしれない。

でもそれなりに経験者と年齢を重ねて来た身には後の展開がどうなるかは察しが付く。

それに火のない所に煙は立たないと言うではないか。

とにかく私は今の平穏を破るようなリスクも冒険も余計な傷も冒すつもりは毛頭無かった。

しかし彼は魅力的な男だった。

「それ以上になるのが怖かったのはもしかしたら私のほうだったのかもしれない。」

1000本ノック   15/1000

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?