からだを感じる、わたしを感じる
先月10月から、【画房寺子屋】の『大人の寺子屋』で、芸術研修のオンラインコースに参加しています。
ルドルフ・シュタイナーの人智学・教育学が根底に流れる研修です。
そこでは、にじみ絵を描いたり、読書会を通じて、研修生の方々の多様なお人柄にも触れることができるので、とてもよい刺激の場にもなっています。
昨日の読書会後のフリートークでは、読書会のテーマの「嗅覚」から、日本語の身体性や、現代人の心理的傾向に話が発展していきました。
そのことについて、少しまとめてみようと思います。
神経科学者のアントニオ・ダマシオのことばに、
『からだは、感情が出る舞台である』
というものがあります。
感情は、からだを通じてとらえることができるという意味ですが、このことを知った数年前、日本語には、現代の脳科学知識を待つまでもなく、まさにそれを具現している言い回しがあると思っていました。
それは、
鼻につく
腹を立てる
頭にくる
などなどです。
フリートーク中に、日本語の身体性の例として、上述の、腹を立てる、頭にくる、を挙げたところ、講師のはらさんが、心理学者・河合隼雄さんの著作のなかで、
「現代人は、腹を立てず、頭にこないで、キレる」
と言及されているのを読んだことがあると話されていました。
「キレる状態は、(感情が)もうからだから離れているようだ」という研修生の意見もありました。
わたしには、現代人が、単に”機能”することを重視するあまり、都合の悪い感情は抑圧してしまい、自分自身やからだを感じられなくなっていることが、その背景にあるように思えるのです。
自分で自分が感じられなくなったら、「わたし」という個は、いなくなってしまうのも同然ではないでしょうか。
わたしは、にじみ絵を描きながら、
色彩を感じ
それぞれの色を見ると、どんな気持ちになるかを感じ
筆を紙に軽くおく感触や
筆を動かす感触
を味わっています。
からだの感覚を感じて、自分自身を感じていられる時間がとても好きです。
細胞がよろこんでいるような、「わたし」が活性化されるような感覚が生まれるから。
読書会の後、からだを感じて、様々な心の状態に気づいていくことは、
「わたし」らしい「わたし」であるための礎ではないかと、そんなことに考えを巡らしました。
Reiko
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