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リンゴが教えてくれたこと

先週、隣人の庭で、リンゴ狩りをした。
自然に育ったリンゴたちだ。
グラニースミスに似て黄緑色をしているが、何という種類なのか不明とのこと。
ドイツには数千種のリンゴがあるそうだから、無理もない。


近所に住む日本人の知人と子どもたち二人、
わたしの夫も加わってのイベントになった。


収穫の助けとなったのは、そこらへんにころがっていた枝と、
池に落ちたリンゴをすくうネットだけだ。

あとは、機転を利かせながら、からだを使うしかない。
すぐに、首が~~~、という具合に、痛くなるのだが、
これが、ゆかいなのだ。みんなで、ワイワイとするからだろう。
(余談だが、一昔前のわたしだったら、このような場に出かけなかったかもしれない。)


1時間ほど格闘すると、一輪車にいっぱいの収穫になった。
(こんなかんじ↓)

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もちろん、途中で味見もしてみた。
その時、わたしの頭に浮かんだことばは、

不揃いだけれど、シャキッとしておいしい。

だった。
同時に、ハッとした。


不揃いだけれど
・・・・


自然界には一つとして同じ形をしたものはないのに。
雪の結晶ですら、すべて違う形をしているというのに。

だから、リンゴだってみんな違う形であって当たり前で、
不揃いという形容は不適当だろう。


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わたしたち人間にも同様なことが言えるだろうと思う。
みんな違って当たり前。
それぞれの子どもがその子らしくなっていけるのが、自然なはずだ。


でも、わたし自身の子供時代を振り返ると、
悲しいかな、一定の価値観の枠にはめられていったと感じている。

あなたは、〇〇であるべき。
女の子は、XXでなければいけない。
そのくらいのことガマンしなさい。
言うことをきいていれば、間違いないのよ。
・・・

という具合だ。


だからといって、そのようなあり方を求めた親や、
社会環境を責めるのでは、何も始まらない。


責任転嫁をしている間は、被害者意識にさいなまれ、みじめになり、
不自由な枠の中で苦しむしかない。


枠にはめられるようなしつけや、教育を受けたことに気づけたら、
自分で自分を変えていけると身をもって体験してきた。


枠の中にとどまるのも選択肢の一つ。
枠の外にも世界があることを知ったら、
そこに一歩を踏み出すのも選択肢の一つになる。

外の世界は広いし、一歩一歩どう歩んでいくかは、自分で決められる。
もちろん、自分で責任をとらなければいけないのだが。
でも、だからこそ、自分なりの一歩を踏んでいくことができるのだ。

不揃いのリンゴたちをみて、ついつい昔のわたしが出てきたのかもしれない。
枠の中からの見方で、リンゴを評価してしまったらしい。


気づけてよかった。
気づきから、自分を変えていける。


そう、自分を自由にしていく旅が始まるから。



Reiko

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