文章はあなたの感傷ごときが汚していい資産ではない、と叫びたい

お金の稼ぎ方もわからず、親からの愛も満足にもらえず、足も遅く、神童と噂されることもない。神に愛されなかったぼくたちが、最後にすがりついた先は文章だった。

日本語も適当に扱えば文学"っぽく"はなるし、ひらがなを多用すれば"味"が出る。こっぱすがしい信念や後悔、不幸すら"ネタ"にして、ぼくらは文章という莫大な資産のスネを少しずつかじりながら、臆病な自尊心と尊大な羞恥心を飼い慣らしてきた。

なにもない自分を恥ずかしがるどころか、それをアイデンティティだとさえ思っていた。

欠陥品のぼくにもかろうじて備わっていた人並みの欲が、ぼくを月給23万円以上の仕事に就職させたとき、ぼくの厚顔無恥で傍若無人な思い込みは終わりを告げた。とどのつまり、凡人であることを否応なしに認めさせられた。

任された仕事をこなすことに手一杯で、巷を賑わす自己啓発本の作者のような八面六臂の大活躍はできそうにない。それなら堅実に生きようとiDeCoやつみたてNISA、株式投資なんかを始めようとも思ったけれど、恩恵を受け取れる未来まで生きていられる気がしないからやめた。

夢はあったけれど、その夢が目標や狂気となってぼくを衝き動かすことはなく、行動は何も変わらず、思春期には風船のように膨らんでぼくを急かした誇大妄想も次第にしぼんでいった。

凡人の証とも言えるスーツ姿に落ち着いたぼくと鏡越しに目が合う。不眠症によって色濃く刻まれた目元のクマを差し引いて、ついでに老いを差し引いても、どうしようもなくみっともなく、みじめに見えた。かっこよくない男のすがたは、あのときの父親と重なった。

どこにもいけないぼくは、どこにもいけないフリをしていながら、その実、どこにもいかなかっただけだ。BUMP OF CHICKENのstage of the groundも、RADWIMPSの億万笑者も、ONE OK ROCKのThe Beginningも、今となってはぼくの心を透過して、どこか別のぼくより聴くにふさわしい人のもとへすり抜けていった。

昨今はやさしい社会になってきたと思う。ぼくのような社会不適合者からすれば嬉しい限りだけど、いっぽうで、自分の苦しみを自分のなかだけで消化しきれない人が増えたように思う。

先に断っておくが、ぼくは過度な自己責任論は悪だと断じている。ベストセラーとなったアドラーの"嫌われる勇気"を読んだ人間のうち、いったい何人がアドラーの生い立ちや研究、論文、他の書籍を理解して、彼が本当に伝えたいことを理解しているのか、平積みされている青い表紙を見るたびに不安になる。自己責任論は思考停止のための都合の良い道具ではなくて、自分の人生を自分で切り拓いていくための大切な武器だ。けっして他者に押し付けるための口実ではない。

話がそれたけれど、昨今の若者はたくさんの悩みに直面している。そして、少し調べるとその悩みに名前がついていることに気づく。安心して、同時に少しがっかりする。

「これは自分だけが抱えている苦しみではない」という事実を目の当たりにしたとき、自分の苦しみの重さを測りかねてしまうのだろう。世界一不幸な人間になり損なった彼ら彼女らは、自分の苦しみにつけられた名前を名刺代わりに使い始める。あろうことか、自分を苦しめてきた憎き苦難や後悔をまとめてアイデンティティとして扱おうと考える。これもまた、フロイトが言うところの防衛機制による反応の一種だ。

そうしたインスタントな不幸の解消方法がもてはやされる一方で、内省や弁証法といった哲学的思考は、太古の昔から今にいたるまで、依然として存在している。

叡智を求めた過去の英雄たちは知っていた。自分の苦しみから本当に開放されるには、苦しみの外側に自分の思考を置かなければならないということを。それは嫌なことを考えないように蓋をすることとは真逆で、考え尽くして学び尽くして、その上で自分がその苦しみをどう捉えるのか"素直に受け止める"ことに他ならない。ネット上で自分の不幸や苦労を売りにする人間のうちいったい何人が、そこまで掘り進めたのか、自分の苦しさに目を向けたのか。今の虚実に踊らされる世界を眺めていると、そんな問いを投げかけたくなってしまう。

ぼくらがはじめに抱いた感覚はなんだったのか。何もない自分への無力感や、苦しみを分かち合う相手がいないことへの寂寥感ではなかったか。

いつの日か、ぼくらは気づいたはずだ。文章を通してなら、本当に伝えたいことのほんの輪郭くらいは伝えられることを。そのとき打ち震えた衝動を今も覚えているだろうか。覚えていないのなら、もうきっとあなたの文章は誰かと分かち合うためのものではなくなってしまっているのだろう。かんたんに己の承認欲求を満たしたり、書き起こした苦しみを安易に評価してもらうことによって正当化したりするための"道具"に成り下がってしまったのだろう。

おめでたい限りだ。あなたは決して「文章しかない」かわいそうな人間ではない。溢れんばかりの自己愛と承認欲求を糧に努力できる有能な頑張り屋さんなのだ。心優しく思慮深いあなたを見込んで、一つだけお願いがある。

どうか、その椅子にふんぞり返って座ることをやめてくれないか。あなたよりもそこに座るべき人間が、その椅子がふさわしい人間が存在するのだ。あなたは勇気を出して、この社会で強く生きていくべきだ。あなたは自分が案外、強かで、強欲で、他者と競うことに抵抗がないと気付くだろう。大丈夫。強欲にもここまで逃げ続けてきたのだから、その脚力を使ってプラスの方向へ駆け出せばいい。あなたの輝くべき場所がその先にあるはずなのだ。

ついでに、そんな文筆家をもてはやす日本語の良し悪しがわからない読者の皆様にもお願いがある。ほんの少し日本語をこねくり回すのが上手いだけの人間を文筆家などと呼ばないでくれ。あなたは本当に心が震える文章に触れたことがあるだろうか。きっとないのだろう。安い共感や安心を生む文章を「よい文章」だなどと許してはならない。そんなことを続けていては、近い将来、いずれ本当の物書きは滅びて、耳障りのいいことをリズミカルに、キャッチーに書く人間が跋扈する地獄へと化してしまう。Yahooの公式ニュースとかJ-POPがいい例だろう。文化や界隈の質は作り手ではなく、あなたたちが、今まさにこの文章を読んでいるあなたが握っているのだと自覚してほしい。

などと嫌味まみれの文章を書いてしまったけれど、物書きを嫌っているわけではない。みんな思い思いに文章を書いてくれたらいいと思う。ただ、プロアマを問わず、インスタントな文章が持て囃される最近の風潮に嫌気が差してしまったから、それをウィットに富んだ文章でかる〜く皮肉ってやるかぁ……なんて軽い気持ちで書き始めて、気づいたら、一息にここまで書ききってしまった。性格の悪さが読み取れるだろう。

友人との電話の予定を20分も押してしまったので、ここで一度筆を置くことにする。読むに堪えない駄文だったが、ここまで読んでくれたあなたに、ありがとう。

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