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古い常識にメスを入れる、初音ミクとの結婚騒動

どうも。
世の中を震撼……とまではいかなくとも、話題になっているトピックがあります。
なんと、初音ミクとの結婚を決めた男性が現れた、というのです。

初音ミクとは、簡単に言えば、素人でも簡単に曲が作れるようになるサポートソフトのイメージキャラクターとして考案された女の子です。その女の子はただのイメージではなく、歌を歌うんですね。
つまりユーザー(作詞作曲者)が制作した曲に合わせて初音ミクが歌う、という。もはや自分で歌えなくとも、楽器が弾けなくとも音楽活動ができる時代になっています。というかなっていたんです。十年以上前から。
初音ミク以外にもキャラクターは存在し、それぞれ異なる声を持ちます。男性キャラもいますので、かなり自由度の高い音楽活動ができるわけです。こうしたキャラのことをボーカル➕ロイドで「ボーカロイド」と呼びます。ボカロ、なんて略され方もしますが、それは置いといて。

今回御結婚された近藤さん、ニュースで取り上げられている状況についてこう述べています。

気にしていない、というわけではなさそうですが、耳に入れて意見を変えるつもりはない、という主張に聞こえます。
誰がどう結婚しようが、まあ、たしかにとやかくいう筋合いなんてないんですよ。誰が結婚しようが離婚しようが自由なんですから。
同時に、嫌悪感を持つ自由も確保されなければなりません。近藤さんの結婚を「キモい、気持ち悪い」と思う方の意見もその方にとっては当然抱く感情なのだから、守らなくてはいけません。
矛盾しているように思えるかもしれませんが、別にこの二つは共存できます。自分の意見と他者の意見を互いに尊重し、私とあなたは違うから。で終わる。たったそれだけのことがどうして私たちは2000年以上共に生きていながら理解できないのでしょう。

私が思うに、理由は近藤さんの言葉の中にありました。あえて引用するなら

小学生の時に「人に言ってはいけません」と教えられること

こそが原因だと思うのです。
私も学校で教わりましたが、首を傾げはしませんでしたか?
私たちはそれぞれが望むものも、望まないものも、てんでバラバラなのに「自分がされて嫌なことは人にしない」と教えこまれます。
これって矛盾してませんか?
前提として「みんな同じ価値観を共有してる」場合はたしかに平和で争いも差別もなくなる環境が作れそうですけど、そんな前提数学や哲学の思考実験の中でしか仮定できませんよね。現実とはもっと複雑で理不尽なものではありませんか?
この教えが導く先にあるのは「異端者を締め出した先での閉鎖的な幸福」です。見えない檻で自分たちを囲み、その中に入るべき人間かどうか外を常に吟味し、仲間になれるやつだけを引き入れて囲いをどんどん強固にしていく。その囲いの中では「人に言ってはいけません」と教わった言葉を吐かず、平和で幸福な人生を謳歌できるでしょう。囲いの名は常識。目には見えないものですが確かに存在しています。
常識の外側にいる人は、簡単に殺されてしまいます。
常識の外側にいる人たちが幸せそうに生きているのを見ると、常識の中でなんとか我慢して自分を殺して踏ん張る人たちはそれが許せなくなります。なぜか。

心理的に言えば認知的不協和が生まれるからです。

自分たちの世界のルールが通用しないところに本当に幸せそうに生きている人がいると、自分の論理が通用せず、自分以外の方法でも幸せになれることが実証されてしまいますよね。
それは自分が否定されたことと同義。
これまで常識の中で生きてきた人たちは簡単に教えを破り捨て、保身のために常識の外にいる人を燃やし尽くそうと火を放ちます。焚べる薪はこれまで自分たちがしてきた我慢、殺してきた自分の気持ちです。どれだけ焚べてもなくなることはないでしょう。

常識にはじき出されて生きてきたはぐれものたちは、一度は常識の中での暖かそうな人生に憧れます。仲間に入れてよと泣きつきます。もしくは、強がってはねっかえります。いずれにせよ常識の内側に生きる人たちへ強い関心を持ちます。「普通」の幸せを願うのです。でも、彼らは認めません。世界が壊れてしまうから、はぐれものは仲間と認めず排斥してしまいます。
行く宛のなくなったはぐれものは幸せについて、おそらく常識の中に生きる人では想像も及ばないほど深く思考します。勉強し、経験します。そして行き着く先には自分だけの幸せがあるのです。
はぐれものだけではなく、本当は、常識の中にいる人たちそれぞれに、自分だけの幸せがあるはずなのです。そこに目を向けさせないために作られた囲いが、それなりの幸せを、それなりの努力で手に入るよう与えているのです。そんなこと、みんなわかっているはずなんです。

近藤さんは勇気ある方であり、同時にこの世界のあり方にメスを入れる一石を投じました。

大袈裟でなく、世の中はもうこれまでの価値観を脱ぎ捨てる時期に来ています。それなりの努力でそれなりの幸せを手にできる時代はとっくの昔に泡となり消えました。形骸化された囲いの中には、閉園後の遊園地のアトラクションみたいな幸福の残骸が散らばっています。
それは昔、老若男女の笑顔を作ったものかもしれませんが、今はガラクタです。
例えば結婚という概念も、もう本当に正しいのか分かりません。
初音ミクと結婚することの何がおかしいのか、考えてみると、やはり一つおかしな点はあります。初音ミクには「結婚したい」という意思がないことです。
出会って付き合い、互いに惹かれて結婚し子供を作るという結婚で重要だった全てのプロセスが一方通行的にしか行われません。近藤さんから初音ミクへ想うことはできても、逆はないということ。
これを結婚と呼んで良いのか、と問われれば、私は違うと答えるでしょう。
でも、これは間違った愛の形か、と問われれば、即答で間違っていないと答えます。
もし結婚が、結婚だけが愛の終着地点だとすれば許嫁はどう説明するのでしょう。結婚という制度を利用した、愛の入れ物だけを先に用意した仮初めの関係ではないでしょうか。そこに注ぐ愛情があって初めて、入れ物に意味があるのではないでしょうか。
常識の中にいる人はそこを疑いません。常識では、たいていの結婚が人生の幸福を増加させ子供を作ることで人生が豊かになると定義されているからです。離婚率やDVの再犯率の高さ、機能不全家族で育った子供のサポートなんて小難しいことには目もくれず、定義された幸せの再現に向けて誰もが必死で頑張っています。
近藤さんはその点において、完全に常識を逸脱した愛の形を見つけました。そこに常識の中で使われている概念、結婚を当てはめてしまったがゆえに、常識の中に暮らす人々から糾弾されたのです。定義から外れる形で結婚されてしまっては、自分たちが否定されてしまうから。なんともバカらしいと思いませんか?

近藤さんが結婚と称した愛の形、私は新たな価値の創造だと思います。
結婚の定義から外れているのだから、わざわざ結婚という言葉でくくらなくとも良い気がするのです。
そしてその新たな価値は、おそらく、この先誰かのための道になる。新たな常識を生み出す糧となる気がしてなりません。
AI技術の進歩が、近い将来ロボットとの恋愛に発展することは目に見えています。人間を選ばず、完璧に自分に適したロボットとの関係を選ぶ人がいてもなんら不思議はありません。かわいいし。
であれば、その一方通行的な愛の形に結婚という古びたアトラクションの名前は必要ない。
昔の常識にとらわれる必要はない。
私は、この一件を「キモい、気持ち悪い」なんて陳腐なワードで燃やして終わるだけの小さなトピックにして欲しくはありません。快挙なんですよ。安楽死が認められるような、生き方の自由度が一つ増えたんですよ。
時代の潮流の先駆けとして、もっと大きな視野でみんなが扱うべき話題だと思いました。
末筆ではございますが、近藤さん、この度は御結婚おめでとうございます。
縁もゆかりもない遠方の若輩者より、あなたの勇気に心から敬意を表します。

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