環
そのときの匂い、声までもが蘇る写真。そのひとの瞳をとおして まだ見ぬ世界を覗けるような写真。心を奪われる 奪ってくれるのは 心地良い。
けれど
なんでも写真に残せるこの時代に、あえて 写真から遠ざかりたいと思う気持ちもある。
少し堅く書いているこれを写しているのもまた、写真ではあるが。
写真を撮って、あるいは見て、満足したくないという想いもある。他者が撮った写真を見て終わり その地に足を運んだ気になれば、すべてこの小さい画面で事が済んでしまう。まるで観念のなかにずっと生きるみたいだ。
大切なものほど、画面越しではなく直で見たい。久しぶりに会う人のことは、ネタバレをくらわずに 遙か遠くの記憶と化してから 会いたい。予習をせずに、観光したい。夢中で過ごす時間に、写真を撮る余地を与えたくない。
良い作品を見た後に、記憶を消してもう一回見たい、と感じるあれに少し似ている。最初に見る景色は特別。
それに、録画しなかった作品ほど覚えていたり、写真を撮らなかった出来事ほど 深く心に残っていたりする。保存しなくても、ちゃんと自分のなかに降り積もってる。
▼ 勝手に、内在説。
そうして、保存しない選択肢も自分に与えた結果、すべては自分のなかにあるという考えが浮かんできた。もっと飛躍させると、忘れてしまっても 目に見えなくても まだ出会っていなくても 誰も認識していなくても、全て もう この世界にあるという考えに至った。
創作は、内在しているものを表面に出してあげる試みなのだと思う。命を吹き込んであげる試みなのだと思う。"すべてが もう この世界にある"を前提とすると、人が認識しているものか していないものか、既に分かりやすく形を与えられているものなのか 万人の根底にたしかに眠っているけれど表には出てきていないものなのか。それだけの違いなのだと思う。
しかしこう考えると、写真も 命を吹き込んであげる立派な試み。新しい姿や意味を与えたり、心に椅子を作ってくれるもの。うん、やっぱり写真は素敵。けれど… (最初に戻る)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?