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雑記

▼ 余分な肉なのか、はたまたそれは本当に余分なのか

 先日の「初心」の記事を書いた後から、度々、「公と私」について考えていた。公にする文章は、まるで外に出るときの自分みたいだ。一回軸を整えてちょっと鎧を着てちょっと戦闘モード(ある種の自己防衛)になってみないと出られない。勿論、鎧を身につけていても、内側から自然に溢れた言葉と文章であることは保証する。しかし、鎧を脱いで部屋着のスウェットで外に出ることは、できない。まだ難易度が高い。

 当初、noteではスウェット外歩きスタイルでいたいと思っていた。私用の雑記をそのまま公にする予定だった。公にした途端に色を失わないために。けれども、私の雑記の場合は他人に読まれることを想定していないので、自分が感覚を再現できるためだけに、連想ゲームの過程をとばすように書いている。それに、一貫性を無視した寄り道も含まれている。それを公にするとなると、読み手の思考回路を想定し、前提となる情報を加えたり多くを語らぬよう削ったり、順序立てて組み立てなければならなかった。多少なりとも。

 そうして、毎回記事を書くときは膨大な雑記を一つの作品に凝縮させていた。ひとつの概念について2000字ほどあるものを200字に落とし込んだこともあった。そこまでしなくてもいいのにと思いながらも、作品を生み出す苦しみと味わい深さに沼り、徹底的にしてしまう。私用をそのまま、ではなく作品に昇華させることで公と私の両方の尊厳が守られる。公と私を区別することで、自宅での心が落ち着く度合いが底上げされるのと同じ原理かな。味をしめた。

 しかしながら、何かを守っている人は不自由だ。外に出るハードル、作品を出すハードルが上がる。凝縮すると洗練されるが、余分な肉を削ぎ落とすので葛藤の過程は描けない。そもそも削ぎ落とされたものは本当に余分なのだろうか。出荷できないだけで価値は同等のものなのでは。むしろ作品の源なのでは。原画なのでは。そう思うようになった。


▼ 不揃いバウムと呼びたい

 無印良品には不揃いバウムという商品があり、季節限定から定番まで豊富な味が楽しめる。かたちが崩れてしまう両端の部分や、見た目が不揃いなものは弾かれて捨てられていたことから、「もったいない」を無くすためにつくられたらしい。

 あ!これだこれだ!と思った。(単純)

 雑記のいいところは、作品に昇華できなかった題材や余分な肉、寄り道や葛藤の過程まで生かせるところ。こうやって過程を描けるのは幸せだな。

 それに、こちらの気合いが入りすぎていると、鎧を纏っていると、読み手もおなじだけ気合を込めて読まねばならないかもしれない。そう強制してしまっているかもしれない。そんな状態で綺麗にまとめすぎた作品を見ると、どこか味気なく感じるだろう。過程をすっ飛ばした結果だけを美味しく調理されても、飽きてしまうだろう。人が余談をせずにはいられない気持ち、それを覗き見る幸せ。作品の人間味はこういうところから来るものなんだろうな。編集後記や裏話を書きたくなる理由も同様かもしれない。

 そんなわけで今回はじめて不揃いバウムと呼びたい雑記を書いている。今までの、副産物であるはずのnoteは良く言えば洗練されていた。悪く言えば手を加えられてもはや副産物ではなくなっていた。「初心」の記事に書いた内容は戒めになったと思う。過程や葛藤を描く不揃いバウムスタイルも、作品に昇華するスタイルも、両方をいいとこ取りしながら、ほどよく表現していけたらいい。柔らかい人になれたらいい。

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