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伝えること

なにかを伝えたいと思うとき。

伝えたいことが、すごくくだらないことなんじゃないか、おおげさなんじゃないか。全然わからない。

そして、私の主張はあっているのか、間違っているのか。正解はないにしても、「社会ではこうあるべき」というものもある。

バカにされたらどうしよう。笑われたら。軽くあしらわれたら。誰かを傷つけたらどうしよう。誰にも受け入れてもらえなかったら。

そんなふうに怖がっている。
そんなふうに怖がる自意識も恥ずかしい。そしてそれを見抜かれていたら。

なにかを表現するというのは難しい。
自分の中には確かに大切な何かがあるんだけど、外に出してみれば「なんて陳腐なものなんだろう、」とがっかりしてしまう。

自分でありたいと思いながらも、他人の目をまったく気にしないなんてことはできない。

何かを言おうとするたび、過去の記憶や誰かの言葉から、色んな妄想が膨らんでしまい、いろんな人の顔を思い浮かべてしまい、結局何も言えない。ということがよくある。

この文を打ちながらも、「自分はいろんなことを考えているんです」というアピールになっていないかが気になる。

中原中也の手紙の一文を読み返す。

自分自身でおありなさい。弱気のために喋ったり動いたりすることを断じておやめなさい。断じてやめようと願いなさい。そしてほんの一時間でもつづけてご覧なさい。すればそのうちきっと何か自分のアプリオリというか何かが動きだして、歌うことが出来ます。 _
安原 喜弘「中原中也の手紙」

この言葉を何度も読み返して、言い聞かせて、文字を書く。

それでも不安は消えないけど、自分自身でなければ、意味がないんだと思う。

なにかを伝える時には、強さが必要で、その強さは、弱さを認めることなのかもね。

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