古の裸麦を探して

麦をさがして

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裸麦(はだかむぎ)という麦があります。今ではどんな麦なのか知る人は少ないですが、60歳以上の方はみんな知っています。「ごはん麦」と言うと分かるでしょうか?「押し麦」として売られているものを目にしたことがある方もいるかもしれません。この裸麦は六列の実がなる六条大麦のひとつで皮が簡単にはがれるのでこの名で呼ばれています。


この長く伸びたヒゲのような部分は芒(のぎ)と言います。裸麦はこの芒がとても長いのが特徴で、繊細な黄金色の線を織りなし、本当に美しい麦です。

下の写真は収穫時に麦を束ねたところ。どんなに疲れていてもついつい見とれてしまいます。

この美しい麦、少し前まではどこでも作られていましたが、白米がたくさん採れるようになると次第に誰も作らなくなり、戦後安い海外の麦が入ってきたこともあってほとんど見られなくなりました。

麦は11月に種を蒔き5月末の梅雨前に収穫です。そのため、米の収穫が終わった田んぼで作っていたと地元の方に聞いています。みな子供の頃手伝わされた記憶があり、懐かしがる方が多いです。

現代では「麦ごはん」といえばごはん1合に対して大さじ1ぐらい、「1:9」ぐらいの割合ですが、白米が贅沢品だった頃は、ヘタすると白米よりも多い割合で麦だったようです。麦は白米ほど旨味がないため、当時はイヤイヤ食べていた想い出も深く、麦ごはんが好きではない方も少なくありません。

とはいえ、当時はごはん麦として食べられていただけでなく、麦みそにしたり麦茶にしたり、あまり知られていないのですが発芽したモミは麦芽糖になり、貧しい時代は水飴をつくってサツマイモと混ぜ、子供たちのために丹精込めておやつを作ったりしていたようです。

この裸麦を作ってみたいと思いました。しかし誰に聞いても、もう誰も種モミを持っていません。いろいろと調べているうち、県の農業試験場に保存されていた種を譲り受け、大規模に育てて事業展開をしているところが県内にあることを知りました。

早速、種モミを分けていただこうとお伺いしました。いろいろお話しましたが残念ながら分けていただくことはできませんでした。しかも理由がよく分かりません。ある会社と共同で商品開発しており、この種はそのパートナーと相談しなければ渡せないとのこと。

早速その会社にも電話しました。すると今度は試験場を管轄する開発センターというところに聞いて欲しいとのこと。言われた通りにその開発センターに出向くと「こちらからは渡せない」と言われます。

もう一度最初のところにお願いにあがりましたが「あなたみたいな人はたくさんいるんだよ」と結局相手にしてもらえませんでした。

私たちの先代が子どもたちのためにずっとつないできてくれた種です。なぜ分けて貰えないのでしょうか。

試験場はこの種をもとに新たな品種を開発するため、毎年少量を植えて種を更新して絶やさないように保管しています。その開発された品種は商標登録されて売られていくので無料で渡せないのは分かります。しかしこれは在来の種。誰のものでもありません。種苗法という法律の中でも在来の種に関しては特許などはありません。

ずっとその理由が分からずにいましたが、理由は簡単でした。あくまで私の推測ですが、その販売している会社は「幻の裸麦が復活した」と希少価値を売りにしているので、みんなが作り始めてしまっては価値が下がるため心情的に渡したくないのでしょう。

試験場や開発センターとしてはその試験場から出た種がどのような成果をあげたのかを報告しなければならない義務があるため、まだまだ実績のない個人の私には到底渡したくないというのが理由のようでした。

そこに種はあるのに育てられない。

遺伝子組み換えで種が危ないと言っているにも関わらず、自分たちが受け継いできた種すらままならない現状がとても悔しかったです。

他にもいろいろな人を頼って麦を探しましたが全く見つかりませんでした。

もう諦めかけた頃、宮崎県では最も辺境の地と言っても過言ではない椎葉村で「平家祭り」というお祭りがあるというので観光目的で訪れました。

椎葉村は、昔壇ノ浦の戦い(1185年)に敗れた平家が落ち延びた村です。

落ち延びた平家を討伐すべく、弓の名手で知られる那須与一の弟、那須大八郎が訪れましたが、地元の方たちと田畑を耕しながらひっそりと暮らす姿を見て討伐を断念。幕府に討伐したと偽りの報告をして、自分もこの地に住みはじめます。やがて、平家の娘「鶴富姫」と恋に落ちますが、幕府から帰還するように言われたため、身ごもった姫を置いてこの地を跡にしたという悲しい逸話が伝えられています。現に、椎葉村には那須姓が多いです。

平家祭りはそんな物語を舞台にしたお祭り。村人が一同に介し、たくさんの屋台が沿道で軒を連ねます。

すっかり観光気分でしたが「ここまで山奥に来ればもしかしたら・・・」と麦を探しました。農家の方がたくさん出店されていたからです。いろいろ聞いて回りました。

しかし結果は惨敗。ここまで山奥にきても「昔はみんな作ってたなぁ」と懐かしがるばかり。もうあきらめて入った役場横の物産館。そこに置かれていた小さなごはん麦の袋に目が止まりました。


「見つけたかもしれない」

写真は興奮してしまってピンぼけですが、ラベルにはおばあちゃんの名前と電話番号が書いてありましたので早速電話して聞いてみました。

電話口に出たおばあちゃんに素性を伝えて確かめると、それはやはり在来の裸麦でした。ついについに、見つけたのです。

本来なら日をあらためてお伺いしたいところですが、ここはそうそう来れるようなところではありません。ずうずうしく種モミを分けていただきたいと申し出ると二つ返事で承諾していただけました。それも、今からそこにもっていってあげるとのこと。

待つこと1時間。小さな腰を曲げたおばあちゃんが一袋の種籾をもってお店の前に来てくれました。これまでの経緯から種モミはそうそう簡単にもらえるものではないと思っていただけに信じられません。

おいくらですか?と聞くと眉間にしわを寄せて「そんなもんはいいが」と笑ってまた人混みに消えていきました。下の写真はその時あわてて撮った後ろ姿。木製のゴミ捨て場の前を小さなリュックをしょって歩いている緑の方です。

「また改めて挨拶に伺います」と伝えましたが「こんな遠いとこ、こんでいいですが」と言われたのでとにかく手紙を送りますと伝え別れました。こんな貴重なものをいただきながら何もお礼ができなかった・・・

ちょうど麦蒔きの時期だったため、帰ってから急いで畑を準備し、種を蒔きました。

もらった種は3畝ほどになりました。わずかな面積ですが種を増やすには十分です。

1か月後、年が開けてからおばあちゃんに手紙を書きました。あの時は自分の素性もそこそこにしか伝えていなかったので、なぜこの裸麦の種が欲しいのか、これまでの自分の人生も振り返りながら分けていただいた感謝をこめて。

ほどなくしておばあちゃんから届いた返信には麦の話とおばあちゃんの半生が書かれていました。椎葉に嫁に来たところから大阪に出稼ぎに行っていたころ、椎茸の菌床栽培をはじめたが腰が悪くなり、今はもうやっていない話など。麦は椎葉でさえもみんなから忘れ去られ、おばあちゃんだけが育てているようでした。

途中、アブラムシがたくさんついたりして心配な時はおばあちゃんに電話して聞いたりもしましたが、麦は順調に育っていきました。

黄金色に輝くおばあちゃんの麦。無事収穫することが出来ました。天日で干して乾燥している様子です。


収穫が落ち着いた頃、あらためてあの辺境の地、椎葉村にお礼に行くことにしました。電話では「こんなところまで来なくていい」と言われましたが私の気持ちが収まりません。

麦を手渡しでもらった、あの村の中心地に辿り着き、住所から場所を調べるのですが、あまりに山奥過ぎて地図に道が描かれておらず、結局道行く村の人に聞きながらすれ違いのできない山道を1時間ほど走りようやくたどり着きました。

ここかな・・・?

山の日が落ちるのは早いです。15時過ぎぐらいでしたがもう夕暮れ時のようでした。ゆっくり入って行くと上の畑の方から「来なすった?」と小さな声がして夕日を背におばあちゃんの影が降りてきました。確かにあの時種モミをもってきてくれたおばあちゃんです。

旦那さんと犬との小さな小さな暮らし。持ってきた自家製の唐芋を渡して改めてお礼を伝えました。お茶ぐらい飲んでいきなさいと言われておじゃますると「ウド食べるけ?」と山で穫ってきた独活(ウド)を出してくれました。おいしいと喜んで食べていると今度は「モチ食べるけ?」と自家製のヨモギ餅が。

これがまたおいしくて喜んでいると「猪肉食べるけ?」と次々に出てきます。・・・おばあちゃん用意してくれてたんだ・・・最初は遠慮していたのですが、もう思いっきり甘えることにしました。おいしいおいしいと食べるのでこたつの向こうでおばあちゃんもとても嬉しそう。でも本当においしかったんです。

帰り際に川仕事から帰ってきた旦那さんと写真を撮らせてもらいました。

おばあちゃんにもらった麦はその後無事収穫。今年再び植えて順調に育っています。あとひと月ほどすれば収穫です。

私はこの麦を「幻の麦」として希少価値を売りにするつもりはありません。この麦を作ったのは私でもなければ、伝えてきたのも私ではありません。椎葉のおばあちゃんでもありません。

商売の道具ではなく子どもたちのためにつないでいかなければいけないのが「種」だと思います。

そして、こんなお話とももにたくさんの方が「いただきます」と手をあわせてご飯を食べることができたらどんなに幸せでしょう。以前はみんなが食べていた、心に「おいしい」食べものをこの麦を通じてたくさんの方に届けたいと思います。

これまでは麦茶ごはん麦としてお届けしてきましたが、今年は麦みそにしたいと思っています。もちろん、種もお分けいたしますよ。みんなで守っていけたら幸いです。

味噌を作る大豆との出会いについてはまた次回書きたいと思います。

―――

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